桂園時代
【概説】
明治時代末期から大正時代初期にかけて、長州閥の桂太郎と立憲政友会総裁の西園寺公望が交互に内閣を組織した政治の時代。藩閥・官僚勢力と政党勢力が妥協し、相対的に安定した政治体制が維持された時期を指す。
桂園時代成立の背景と「情意投合」
1900年(明治33年)、伊藤博文による立憲政友会の結成は、長らく藩閥政府と対立してきた政党勢力が政権運営に本格的に関与する大きな転換点となった。しかし、山県有朋を中心とする保守的な藩閥・官僚・軍部勢力は、政党の台頭を依然として強く警戒していた。こうした中で、山県の後継者として台頭した長州出身の桂太郎と、伊藤から政友会総裁を受け継いだ西園寺公望は、全面的な対立による政治の停滞を避けるため、互いに妥協し協力し合う道を選んだ。
1901年に成立した第1次桂内閣は、政友会の議会における協力を得ることで、日英同盟の締結や日露戦争という国家の危機を乗り切った。そして1906年、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)に対する国民の不満が高まる中、桂は退陣し、西園寺に政権を譲り渡した。彼らは密室の話し合いによって政権を授受し、これを「情意投合」と呼んだ。以後、第2次桂内閣(1908〜1911年)、第2次西園寺内閣(1911〜1912年)と、両者が交互に首相を務める慣例が定着し、これが「桂園時代」と呼ばれる安定期を形成することになる。
棲み分けによる政治運営と内外の政策
桂園時代の政治的安定は、藩閥勢力が官僚機構や軍部を掌握し、政友会が衆議院の多数派として議会運営を円滑にするという「棲み分け」によって成り立っていた。桂内閣の時期には、韓国併合(1910年)や関税自主権の完全回復(1911年)といった帝国主義的な対外政策が推進される一方、国内では社会主義運動を弾圧した大逆事件(1910年)や、地方改良運動を通じた国民統合が図られた。
一方の西園寺内閣の時期には、鉄道国有法に基づく鉄道の国家統制や、日露戦争後の財政難を立て直すための行財政整理が試みられた。しかし、政党を基盤とする西園寺内閣であっても、元老や藩閥の意向を無視することはできず、本質的には藩閥と政党の「妥協の産物」としての政権運営にとどまっていた。
桂園体制の限界と大正政変
10年以上にわたって続いた桂園時代であったが、日露戦争後の急激な重化学工業化と都市化に伴い、民衆の政治意識は飛躍的に高まっていった。一部の特権階級による密室での政権交代に対して、新聞や知識人、そして都市民衆からの批判は日増しに強くなっていた。また、財政難の中で軍拡を求める軍部(特に陸軍)との対立も深刻化していく。
1912年(大正元年)、第2次西園寺内閣が陸軍の要求する二個師団増設を財政難を理由に拒否すると、陸軍大臣が単独辞職し、軍部大臣現役武官制の規定により内閣は総辞職に追い込まれた。続いて元老会議の推挙により第3次桂太郎内閣が成立したが、国民や政党はこれを「藩閥・軍部の横暴」とみなし、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第一次護憲運動が全国規模で爆発した。
桂園時代の終焉と歴史的意義
民衆の激しい抗議行動によって議事堂は包囲され、1913年(大正2年)、第3次桂内閣はわずか53日で退陣を余儀なくされた(大正政変)。同年秋に桂太郎が病死したことで、長らく続いた桂園時代は名実ともに終焉を迎えた。
桂園時代は、明治初期から続いた「藩閥政治」から、大正期以降の「政党内閣制」へと移行する歴史的な過渡期に位置づけられる。元老や藩閥が依然として強い権力を持っていたものの、「もはや政党(衆議院の多数派)の支持なしには国家の運営は不可能である」という事実を決定づけた時代であった。この妥協の時代の崩壊を経て、日本の政治は本格的な大正デモクラシーの潮流へと突入していくのである。