前期(弥生時代) (ぜんき)
【概説】
弥生時代における最初の画期。九州北部で受容された本格的な水稲耕作技術が、西日本を中心に東へと急速に広まっていった時期である。
1. 水稲耕作の本格化と「遠賀川式土器」の広がり
本格的な水田農業の開始は、従来は弥生時代前期の開始と同時に捉えられていたが、近年の研究では縄文時代晩期末(突帯文土器期)にまで遡ることが明らかになっている。しかし、弥生時代前期に入ると、灌漑技術を用いた本格的な水稲耕作が九州北部で完全に定着する。福岡市の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡などでは、水路や堰、畦畔(けいはん)を備えた整然とした水田跡が確認されている。
この農耕技術の普及と軌を一にして、西日本一帯に広がったのが遠賀川式土器(おんががわしきどき)である。福岡県遠賀川流域の立屋敷遺跡で発見されたこの土器は、壺・甕・鉢などを基本構成とし、稲作技術を携えて移動した人々、あるいは技術受容の伝播にのって、近畿地方、さらには中部・関東・東北地方の一部にまで急速に伝わった。遠賀川式土器の分布は、まさに初期の農耕文化が日本列島を席巻していくルートを示している。
2. 生産様式の変革がもたらした社会構造の変化
稲作の受容は、単なる食料生産手段の変更にとどまらず、社会構造を根本から変革させた。前期の稲作は主に低湿地を利用した湿田で行われ、木製の農具(木鍬や木鋤)が用いられた。収穫には、稲の穂先を摘み取る石包丁を用いた「穂首刈り」が行われ、収穫された米は竪穴住居内や高床倉庫に貯蔵された。
定住生活の深化に伴い、人々の共同作業(共同労働)の重要性が高まり、集落の規模は拡大した。これによって、富の蓄積や余剰生産物の管理をめぐる、緩やかな社会の階層化が始まりつつあった。また、この時期には共同体の祭祀に用いられる青銅器(初期の扁平片刃石斧やごく初期の銅鐸など)や、実用的な鉄器などの金属器も大陸から限定的に流入し始めたが、石器が依然として主要な道具として使われていた(木器製作のための大陸系磨製石斧など)。
3. 年代論争:前期の起点をめぐる「歴博説」と従来説
弥生時代前期がいつ始まったかという「弥生時代の開始年代」については、現在も活発な論争が続いている。従来の考古学では、土器の編年や中国の文献(『漢書』地理志など)との整合性から、弥生時代の始まり(前期の開始)は紀元前4世紀頃とされてきた。
しかし、2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)などの研究グループが、土器に付着した炭化物などを対象にAMS-炭素14年代測定法を用いた分析を行い、弥生時代の開始(縄文晩期から弥生前期への移行)を紀元前10世紀頃(前950年頃)にまで遡らせる新説を発表した。この「歴博説」は、日本の農耕社会の成立時期を約500年も遡らせるものであり、当時の東アジア情勢(中国の春秋戦国時代における動乱など)との連動性を考える上でも極めて重要である。現在ではこの新年代観を受け入れる研究者が増えているものの、測定の技術的誤差や地域差を考慮する慎重派もあり、議論は完全には収束していない。