囲米 (かこいまい)
【概説】
江戸時代中期、老中・松平定信が主導した寛政の改革において実施された飢饉対策のための米の備蓄制度。
全国の諸大名に対し、石高1万石につき50石の割合で米を拠出し、社倉や義倉に備蓄することを義務付けた。
天明の飢饉による甚大な被害と社会不安を教訓として導入され、凶作や自然災害などの非常時に備える社会保障的機能を持っていた。
天明の飢饉の教訓と制度の背景
江戸時代中期、田沼意次が実権を握っていた時代に発生した天明の飢饉(1782〜1788年)は、全国的な大凶作をもたらし、各地で餓死者が続出する未曾有の大惨事となった。特に農村部での被害は凄まじく、江戸や大坂などの巨大都市部でも米価が異常高騰し、1787年(天明7年)には大規模な天明の打ちこわしが発生した。この全国的な打ちこわしは幕府の権威を大きく揺るがし、都市の治安維持と非常時の食糧確保がいかに重要であるかを幕閣に痛感させた。
この危機的状況のなかで老中首座に就任した松平定信は、幕府の立て直しと社会不安の解消を目指し、寛政の改革に着手した。定信は、飢饉や災害といった非常時における食糧不足と物価高騰こそが体制崩壊の引き金になると考え、全国的な備蓄制度である「囲米」の実施を強く推し進めたのである。
諸大名への義務化と社倉・義倉の整備
1789年(寛政元年)、幕府は全国の諸大名に対して囲米令を発布した。具体的には、各大名の領地において石高1万石につき50石の割合で米を拠出し、領内に備蓄することを義務付けるものであった。この際、保管のための施設として、中国の制度に倣った社倉(郷村単位で共同備蓄する蔵)や義倉(富裕層などの寄付によって困窮者を救済する蔵)の設置と活用が奨励された。
幕府は各大名に対して備蓄量や保管状況の報告を義務付け、厳格な管理体制を敷いた。単なる精神論ではなく、具体的な数値を定めて備蓄を強制した点は、幕府が飢饉対策をいかに切迫した課題として捉えていたかを示している。備蓄された米は、数年ごとに新米と入れ替えられ、古米は市場に売却するか農民に低利で貸し付けられるなどして、品質の維持と資金の循環が図られた。
江戸の町における備蓄政策(七分積金との連動)
囲米政策は、農村部を抱える大名だけでなく、幕府のお膝元である江戸の町に対しても形を変えて適用された。松平定信は、江戸の町人の生活安定を図るため、町入用(町の運営経費)の節約を命じ、その節約分の7割を強制的に積み立てる七分積金(しちぶつみきん)の制度を創設した。この資金を元手にして、江戸の各所に設置された町会所(まちがいしょ)で米を買い入れて備蓄(囲米)させ、残りの資金は低利で貸し付けて運用させた。
町会所における囲米は、飢饉時や災害時に米を安価に放出(お救い米)したり、困窮者に炊き出しを行ったりするための重要な原資となった。これにより、江戸の都市部におけるセーフティネットが構築され、都市下層民の不満による暴動や打ちこわしを未然に防ぐ機能が期待されたのである。
囲米制度の歴史的意義とその後の展開
囲米制度の最大の歴史的意義は、幕府主導で全国規模の災害備蓄・社会福祉システムを構築した点にある。それまで各藩や地域ごとに場当たり的に行われていた救済策を制度化し、非常時に向けたリスク管理を国家レベルの政策として明確に位置づけたことは画期的であった。
松平定信がわずか6年余りで失脚した後も、囲米や七分積金・町会所の制度は幕府の基本政策として引き継がれた。約40年後に発生した天保の飢饉(1833〜1839年)においては、この制度が効果を発揮し、江戸の町では大規模な打ちこわしや多数の餓死者を出す事態を回避することに成功した。また、諸藩においても、囲米を徹底していた藩(かつて定信が治めた白河藩など)では被害を最小限に食い止めることができた一方で、財政難から備蓄を怠っていた藩では深刻な飢餓状態に陥るなど、明暗が大きく分かれる結果となった。囲米は、江戸時代後期の社会の安定化に少なからず貢献した重要政策であったと言える。