2代目市川左団次 (にだいめいちかわさだんじ)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎俳優。ヨーロッパ留学を経て劇作家の小山内薫とともに「自由劇場」を結成し、日本における近代演劇(新劇)の確立に先駆的な役割を果たした人物。
欧州留学と演劇改良への目覚め
二代目市川左団次は、明治歌舞伎の黄金期を支えた初代市川左団次の長男として生まれた。若くして歌舞伎の技量を磨き、1906年に二代目左団次を襲名する。しかし、当時の形骸化しつつあった伝統的な歌舞伎のあり方に疑問を抱き、襲名直後から約9ヶ月間にわたるヨーロッパ留学へと旅立った。ロンドンやパリなどで現地の近代演劇を貪欲に吸収した彼は、演劇が社会や文学と密接に結びついている西洋の芸術観に強い衝撃を受け、帰国後に日本の演劇界を根本から改革することを決意する。
「自由劇場」の創設と新劇運動の展開
帰国後の1909年、左団次は演劇改良を志す劇作家・演出家の小山内薫と意気投合し、会員制の実験劇場である自由劇場を創設した。その第1回公演として、ノルウェーの劇作家イプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演。左団次をはじめとする歌舞伎俳優が、伝統的な様式美や誇張された発声法を封印し、徹底したリアリズム(写実主義)演技に挑んだこの公演は、日本の演劇界に大きな衝撃を与えた。この試みは、のちの新劇運動の実質的な出発点となり、日本の近代演劇の発展に計り知れない影響を及ぼした。
新歌舞伎の確立と歴史的意義
左団次の功績は、新劇の育成にとどまらず、歌舞伎そのものの近代化にも発揮された。彼は劇作家の岡本綺堂と提携し、『修禅寺物語』などの新作を次々と上演。江戸時代の演目にはない、登場人物の近代的な心理葛藤や合理的な演出を取り入れたこれらの作品群は「新歌舞伎」と呼ばれ、歌舞伎の新しいジャンルとして定着した。伝統芸能の継承者でありながら、西洋の最先端演劇を取り入れて自らを革新し続けた左団次は、明治以降の日本文化が直面した「和洋の融合」という課題に演劇界から明快な答えを示した先駆者であった。