浅井忠 (あさい ちゅう)
【概説】
明治美術会の中心人物として活躍した、明治時代を代表する洋画家。日本の農村風景などを暗褐色の渋い色調で描く「脂派(やにわ)」を牽引し、『収穫』や『春畝』などの写実的な名作を残した。
工部美術学校とフォンタネージからの薫陶
浅井忠は、江戸時代末期の1856年、佐倉藩(現在の千葉県)の藩士の家に生まれた。幼少期より南画などを学んでいたが、明治維新後の近代化政策のなかで本格的な西洋画を志すようになる。1876年(明治9年)、政府が設立した工部美術学校の第一期生として入学し、お雇い外国人として来日していたイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事した。
フォンタネージはフランスのバルビゾン派に影響を受けた風景画家であり、浅井は彼から徹底した写実主義と、自然を真摯に観察する態度を学んだ。この時期に培われた堅牢なデッサン力と西洋画の伝統的な明暗法が、後の浅井の芸術の揺るぎない土台となった。
明治美術会の結成と「脂派」の確立
1880年代に入ると、アーネスト・フェノロサや岡倉天心らによる国粋主義的な日本画復興運動が盛んになり、工部美術学校が廃校に追い込まれるなど、洋画は深刻な排斥の時代を迎えた。この不遇の時代にあって、浅井ら洋画家たちは連帯し、1889年(明治22年)に日本で最初の洋画美術団体である明治美術会を創設した。
浅井はこの会の中心人物として活躍し、フォンタネージの教えを忠実に守りながら日本の風土や農民の素朴な生活を描き続けた。彼らの作品は、ニスを多く用いた暗褐色の重厚な色調が特徴であったため、後に「脂派(やにわ)」と呼ばれるようになった。1890年に制作された代表作『収穫』(重要文化財)は、この時期の精緻な写実と深い抒情性を示す傑作である。
黒田清輝の台頭とフランス留学による作風の転換
1893年にフランスから帰国した黒田清輝が、印象派の影響を受けた明るい色彩の画風(外光派・紫派)を日本に持ち込むと、明治美術会の「脂派」は次第に古く暗いものとして扱われるようになった。白馬会を結成した黒田らが画壇の主流を占めていくなか、浅井は1900年(明治33年)にパリ万国博覧会の視察等を目的としてフランスへ留学する。
パリ郊外の村グレー・シュル・ロワンに滞在した浅井は、印象派の明るい色彩や、当時流行していたアール・ヌーヴォーの新しいデザイン感覚を貪欲に吸収した。この滞欧期に制作された『グレーの秋』『グレーの洗濯場』などの作品は、かつての暗褐色の画風から一転し、水彩画のような軽快な筆致と明るく透明感のある色彩を獲得しており、浅井の芸術の到達点の一つと評価されている。
京都での図案教育と関西美術院の創設
1902年(明治35年)に帰国した浅井は、新たに設立された京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の教授に就任し、教育者としての道を歩み始めた。彼はフランスで学んだアール・ヌーヴォーの装飾様式を取り入れ、日本の近代的な図案(デザイン)教育の基礎を築き上げた。
また、洋画の不毛の地であった関西において洋画壇を育成するため、1906年(明治39年)に関西美術院を創設し、初代院長に就任した。浅井の温厚な人柄と情熱的な指導のもとから、梅原龍三郎や安井曾太郎、津田青楓といった後の大正・昭和期を牽引する日本洋画壇の巨匠たちが次々と巣立っていった。浅井は翌1907年に51歳で急逝するが、その芸術的遺産と教育者としての足跡は近代日本美術史に計り知れない影響を残したのである。