水稲耕作
【概説】
水を張った田(水田)で稲を栽培する農法。縄文時代晩期に大陸から日本列島へ伝来し、弥生時代の社会と経済の基盤となった。長期保存が可能な米の余剰生産をもたらすことで、貧富の差や階級の発生、ひいては「クニ」と呼ばれる政治的結合体の形成を促した日本史における重大な転換点である。
日本列島への伝来と波及
水稲耕作は長らく弥生時代の開始を告げる指標とされてきたが、近年の考古学的調査により、縄文時代晩期にはすでに九州北部へ伝来していたことが判明している。佐賀県の菜畑遺跡や福岡県の板付遺跡などで、用水路や畔(あぜ)を備えた初期の水田跡が確認されている。その後、水稲耕作は西日本を中心に急速に広まり、弥生時代中期には東北地方北部にまで到達した(青森県の砂沢遺跡など)。気候条件や地形などの要因により、北海道(続縄文文化)や南西諸島(貝塚時代)には及ばなかったものの、日本列島の大部分が採集・狩猟社会から農耕社会へと大きく転換することとなった。
栽培技術と農具の発達
初期の水稲耕作は、地下水位が高く水はけの悪い湿田を中心に行われており、足が沈み込むのを防ぐための田下駄などの特殊な道具を要した。しかし、時代が下るにつれて灌漑施設を人工的に整え、生産性の高い乾田の開発が進められた。農具についても、木製の鍬(くわ)や鋤(すき)といった木製農具が広く用いられ、収穫時には石包丁(いしぼうちょう)を用いた穂首刈りが行われていた。やがて大陸から鉄器が普及し始めると、木製農具の刃先に鉄を被せた鉄刃農具や、根元から稲を刈り取る鉄鎌(てつかま)が登場し、農業生産力は飛躍的に向上した。
社会構造への多大な影響と階層化の進行
水稲耕作の定着は、日本列島の社会構造を根本から変革した。最大の要因は、米が長期保存可能な食糧であり、余剰生産物として蓄積できる点にあった。収穫量の差や、農作に不可欠な水利権の掌握などを巡って、集落内や集落間で富の偏在が生じ、やがて持つ者と持たざる者という貧富の差や、支配者と被支配者という階級社会が形成された。蓄えられた米は、ネズミや湿気から守るために高床倉庫に保管された。こうした生産物や労働力の管理を担う有力者は次第に権力を強め、指導者としての地位を確立していった。
「クニ」の形成と政治的統合
農耕社会の発展は、必然的に土地や水を巡る集落間の争い(戦争)を生み出した。人々は外敵の襲撃に備えるため、周囲に深い堀を巡らせた環濠集落(吉野ヶ里遺跡など)や、見晴らしの良い山頂付近に営まれた高地性集落を形成した。こうした争いを経て、有力な集落が周囲の小集落を従えるようになり、「クニ」と呼ばれる小国(政治的結合体)が各地に誕生した。中国の史書『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝に記されている「百余国の分立」や「倭国大乱」といった記述は、水稲耕作を基盤とした社会の急激な変化と、それに伴う統合の過程を如実に物語っている。水稲耕作は単なる生産技術の導入にとどまらず、後のヤマト王権へと繋がる国家形成の第一歩であったと言える。