大同団結(論)

1887年に後藤象二郎や星亨らが唱えた、分裂していた旧自由党と立憲改進党の勢力が「小異を捨てて大同につき」、再び連携して政府に対抗しようとする運動は何か?
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重要度
★★

大同団結 (だいどうだんけつ)

1887年

【概説】
明治中期の1887年に、星亨や後藤象二郎らが提唱した自由民権派の再結集運動。井上馨外相の条約改正交渉に対する不満を背景に、「小異を捨てて大同に就く」として、分裂していた民権勢力の結集と反政府運動の組織化を目指した。

提唱の背景:民権派の沈滞と井上外交への批判

1884年の激化事件やそれに伴う自由党の解党、さらには立憲改進党の事実上の休止状態などにより、1880年代半ばの自由民権運動は著しい沈滞期(「民権の冬」)を迎えていた。しかし、1887年、外務大臣井上馨が進めていた条約改正交渉において、外国人判事の任用や極端な欧化政策(鹿鳴館外交)の実態が明らかになると、政府に対する世論の批判が沸騰した。

この対外硬的なナショナリズムの高まりを契機として、元自由党の星亨らが、分散していた民権派諸勢力が再び団結し、1890年に予定されている国会開設に向けて再結集すべきであるとする「大同団結論」を提唱した。

「小異を捨てて大同に就く」と三大事件建白運動

星亨の呼びかけに応じる形で、元土佐藩士の後藤象二郎がこの運動の首領として推された。後藤は「小異(個々の政策や主義主張の違い)を捨てて大同(反政府・国会開設という大目標)に就く」ことを説き、全国の民権派に大同協和を呼びかけた。

この大同団結運動は、地租軽減、言論・集会の自由、対等条約締結を求めて展開された三大事件建白運動と合流し、全国規模の強力な反政府運動へと発展した。これにより、明治政府はかつてない政治的危機に直面することとなった。

保安条例による弾圧と懐柔による分裂

高まる反政府運動に対し、第一次伊藤博文内閣は強硬な姿勢で臨んだ。1887年12月、政府は保安条例を電撃的に公布・施行し、皇居周辺から反政府活動家を追放した。これにより星亨や片岡健吉、尾崎行雄ら約500名が東京から退去させられ、運動は大きな打撃を受けた。

さらに政府は懐柔策(切り崩し工作)を企図し、1889年に黒田清隆内閣が指導者の後藤象二郎を逓信大臣として入閣させた。首領を失った大同団結運動は「大同倶楽部」と「大同協和会」などに分裂し、当初目指した民権派の一大統一勢力としての国会開設(第1回帝国議会)への臨戦態勢は崩壊することとなった。しかし、この運動を通じて形成された民権派の人的ネットワークは、のちの初期議会における「民党」の結成へと引き継がれていくこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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