広島への原爆投下
【概説】
太平洋戦争末期の1945年8月6日、アメリカ軍によって広島市に世界で初めて実戦投下された原子爆弾による惨劇。ウラン型原爆の爆発によって市街地は一瞬にして壊滅し、十数万人もの一般市民が犠牲となった。長崎への原爆投下やソ連の対日参戦とともに、日本がポツダム宣言を受諾して敗戦を迎える決定的な要因となった。
原爆開発と投下目標の選定
第二次世界大戦中、アメリカはイギリスやカナダの協力のもと、極秘の核兵器開発プロジェクトであるマンハッタン計画を推し進めていた。1945年7月にニューメキシコ州での人類初の核実験(トリニティ実験)に成功すると、当時のトルーマン大統領は、本土決戦を辞さない構えを見せる日本を早期に降伏させるため、そして戦後の国際秩序においてソ連に対する軍事的優位性を確保するために、原爆の実戦使用を決断した。
投下目標の選定にあたり、アメリカ軍は新兵器の破壊力を正確に測定するという目的から、あらかじめ大規模な通常空襲を控える都市をリストアップしていた。その中で、西日本の防衛を統括する第2総軍司令部が置かれるなど軍事都市としての性格を持ち、かつ平坦な地形が爆風の威力を確認するのに適しているとされた広島が、第一の投下目標に選定されたのである。
1945年8月6日の惨状
1945年8月6日未明、マリアナ諸島のテニアン島基地からポール・ティベッツ大佐が機長を務めるB29爆撃機エノラ・ゲイが飛び立った。同日午前8時15分、広島市上空に到達したエノラ・ゲイは、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。原爆は上空約600メートルで炸裂し、その瞬間に太陽の表面温度に匹敵する強烈な熱線と、音速を超える猛烈な爆風が街を襲った。
爆心地付近の建造物は瞬時にして倒壊・焼失し、屋外にいた人々は熱線によって文字通り炭化し、即死した。また、建物の下敷きになったり、その後に発生した大規模な火災に巻き込まれたりして、無数の市民が命を落とした。当時の広島市の人口約35万人のうち、1945年の年末までに約14万人が死亡したと推計されている。犠牲者の中には、建物疎開の作業に動員されていた多くの中学生や女学生、さらには朝鮮半島からの強制連行者や連合軍の捕虜なども含まれていた。
未曾有の放射線被害と被爆者
原子爆弾がこれまでの通常兵器と決定的に異なっていたのは、爆発に伴って大量の放射線(初期放射線および残留放射線)が放出されたことである。奇跡的に爆風や熱線による直接的な被害を免れた人々や、肉親を捜すために爆発後に市内に立ち入った人々(入市被爆者)、さらには放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びた人々も、目に見えない放射線によって細胞や遺伝子を破壊された。
被爆者たちは、直後から脱毛、嘔吐、皮下出血などの急性障害に見舞われ、次々と命を落とした。さらに、生き延びた人々も、数年から数十年が経過した後に白血病や甲状腺がん、各種の悪性腫瘍などを発症するリスクにさらされ、原爆症という生涯消えることのない心身の苦痛を背負うこととなった。戦後、彼らへの医療支援と国家補償を求める運動は、長期にわたる社会的課題となった。
歴史的意義と終戦への軌跡
広島への原爆投下は、日本の戦争指導部に計り知れない衝撃を与えた。日本政府が広島の被害状況の甚大さに狼狽する中、直後の8月8日にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻(ソ連の対日参戦)し、翌9日には長崎県長崎市に対してもプルトニウム型原爆「ファットマン」が投下された。
この二度の被爆とソ連参戦という未曾有の事態を受け、ついに昭和天皇の聖断により、8月14日の御前会議にてポツダム宣言の受諾が決定された。広島への原爆投下は、日本の無謀な戦争に終止符を打つ決定的な引き金の一つとなったのである。
同時にこの事件は、人類が初めて核兵器の惨禍を経験した歴史的転換点でもあった。冷戦期に米ソの核軍拡競争が激化する中、1954年の第五福竜丸事件などを契機として日本国内で原水爆禁止運動が本格化し、広島は「世界の平和都市」として、現在に至るまで核兵器廃絶を全世界に向けて訴え続ける象徴的な場所となっている。