言論・集会の自由
【概説】
明治中期の自由民権運動において、弾圧法令の撤廃と基本的人権の保障を求めて掲げられた政治的要求。1887年(明治20年)の三大事件建白運動において、「地租軽減」「外交失策の挽回」と並ぶ三本の柱の一つとして政府に迫ったものである。
三大事件建白運動における「言論・集会の自由」の要求
1887年(明治20年)、停滞していた自由民権運動は、外相・井上馨の極端な欧化政策と条約改正交渉(外国人判事の任用など)に対する国民的な反発を機に、再び爆発的な高まりを見せた。この時、高知県の民権派指導者であった片岡健吉らが元老院に提出した「三大事件建白書」は、分散していた運動を再結集させる起爆剤となった。
建白書が掲げた「三大事件」とは、民力の休養(地租軽減)、対等条約の締結(外交失策の挽回)、そして言論・集会の自由の確立であった。民権派にとって、政治的主張を社会に広め、国民の合意を形成するためには、自らの意見を表明し、同志と連帯して集会を開く権利の獲得が最優先の課題であった。
明治政府による言論・集会への弾圧政策
明治政府は、1870年代後半から高揚した自由民権運動を抑え込むため、段階的に厳しい取締法令を整備していた。1875年(明治8年)には、新聞や雑誌による政府批判を取り締まる新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定。これにより多くのジャーナリストや知識人が投獄された。
さらに、運動が全国的な結社へと発展すると、1880年(明治13年)に集会条例を制定した。この条例によって、政治集会や結社は警察の事前許可制となり、軍人・警察官・教員・生徒などの政治活動が全面的に禁止された。三大事件建白運動における「言論・集会の自由」の要求は、これら民衆の政治的発言権を奪う弾圧法令の撤廃を直接的に目指すものであった。
保安条例による鎮圧と近代憲法への影響
民権派による「言論・集会の自由」の要求に対し、第一次伊藤博文内閣は妥協を拒否した。政府は1887年12月、首都の治安維持を名目に保安条例を電撃的に公布。民権派の活動家ら500余名を東京(皇居から三里以内)から即座に強制追放し、運動を力づくで鎮圧した。
この弾圧を経て、1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、第29条において信教の自由などとともに「言論、著作、印行、集会及結社」の自由が盛り込まれた。しかし、これらはすべて「法律の範囲内」においてのみ認められるという強い制限(法律の留保)が付されていた。結果として、大正デモクラシー期に一時的な緩和を見せたものの、昭和期の治安維持法などに見られる国家権力による恣意的な言論・集会の弾圧へと繋がっていくこととなった。