明六社

1873年、森有礼の提唱によって結成され、福沢諭吉や西周、加藤弘之などの知識人が参加した啓蒙思想団体は何か?
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★★★

【参考リンク】
明六社(Wikipedia)

明六社 (めいろくしゃ)

1873年〜1875年

【概説】
1873年(明治6年)に森有礼の提唱によって結成された、日本初の近代的啓蒙思想団体。福沢諭吉や西周ら当時の代表的な知識人が結集し、機関誌『明六雑誌』の発行や演説会を通じて西洋の近代思想を紹介し、明治初期の文明開化に多大な影響を与えた。

結成の背景と目的

1873年(明治6年)秋、初代駐米少弁務使としての任を終えて帰国した森有礼は、アメリカで見聞した学術団体や協会の活動に強い感銘を受け、日本にも同様の知識人のネットワークが必要であると痛感した。森は、かつて幕府の洋学教育機関であった開成所の出身者や、欧米への留学経験を持つ優秀な洋学者たちに広く呼びかけた。その結果、賛同した知識人たちによって結成されたのが明六社である。名称は結成された年である明治6年に由来する。

明六社の主たる目的は、封建的な旧弊を打破し、広く国民を啓蒙して日本の近代化を精神面から支えることにあった。初代社長には森有礼が就任(のちに西村茂樹に交替)し、会員は互いに自由な立場で議論を交わす場として機能した。

日本の「知」を結集した豪華な顔ぶれ

明六社に参加したメンバーは、明治初期の日本を代表する最高峰の頭脳陣であった。在野の教育者・啓蒙思想家として絶大な影響力を持った福沢諭吉をはじめ、『西国立志編』の翻訳で知られる中村正直、のちに「哲学」という訳語を考案する西周、日本で最初の西洋法学の紹介者である津田真道、天賦人権論を紹介しつつものちに国家主義へと転じる加藤弘之、そして道徳教育を重んじた西村茂樹などが名を連ねた。

彼らの多くは明治政府に出仕する官僚でもあり、官民の垣根を越えて西洋思想の研究と普及に取り組んだ点が大きな特徴である。

『明六雑誌』の創刊と「演説」の導入

明六社の活動の柱となったのが、1874年(明治7年)に創刊された機関誌『明六雑誌』の発行と、月2回の定例会での議論である。同誌では、政治、法律、経済、哲学、教育から、夫婦同権論(妻妾論)、文字改良論、さらには迷信の打破に至るまで、極めて多岐にわたるテーマが論じられた。これにより、西洋の近代的な概念や学術用語が次々と日本語に翻訳され、日本の知的風土の基盤が形成されていった。

また、明六社は日本に「演説」や「討論」という概念を導入し、定着させた点でも歴史的意義が深い。「演説」という言葉自体、福沢諭吉らが西洋の概念(スピーチ)を翻訳して作り出した和製漢語であり、大勢の聴衆の前で自らの意見を論理的に語るという民主主義的なコミュニケーションの手法は、この明六社の活動を通じて広く社会に認知されるようになった。

言論弾圧による活動停止とその後の影響

啓蒙活動を通じて明治社会に多大な影響を与えた明六社であったが、その活動期間はわずか2年足らずであった。当時、自由民権運動が高まりを見せ始めると、政府に対する批判的な言論を警戒した明治政府は、1875年(明治8年)に讒謗律(ざんぼうりつ)および新聞紙条例を制定し、厳しい言論統制に乗り出した。

明六社の会員には政府高官も多く含まれていたため、政府の規制対象となるような雑誌の発行を続けるか否かで内部に対立が生じた。福沢諭吉らは、政府の弾圧下で自由な言論が担保できないとして雑誌の停刊を強く主張し、最終的に『明六雑誌』は第43号をもって廃刊となり、明六社も事実上の活動停止(自然消滅)に追い込まれた。

しかし、明六社が蒔いた啓蒙の種は、その後の自由民権運動の理論的支柱となり、日本の近代ジャーナリズムや学術研究の出発点となった。なお、明六社の人的ネットワーク自体は完全に消滅したわけではなく、1879年(明治12年)に福沢諭吉らを中心に設立された「東京学士会院」(現在の日本学士院の源流)へと実質的に引き継がれていくこととなる。

明六雑誌 上 (岩波文庫 青 130-1)

明治初期の知識人たちが西洋文明を咀嚼し、近代日本の礎を築いた知の格闘と啓蒙の精神を今に伝える貴重な資料。

近世日本哲学史: 幕末から明治維新の啓蒙思想

幕末から維新期にかけて、日本独自の思索が西洋哲学と衝突・融合しながら近代化を遂げた思想的変遷を辿る知の探求。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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