根元刈り(根刈り)

重要度
★★

【参考リンク】
稲刈り(Wikipedia)

根元刈り(根刈り) (弥生時代中期〜後期頃)

【概説】
弥生時代中期以降、鉄鎌の普及に伴って広まった、稲を株の根元から丸ごと刈り取る収穫方法。それまでの石包丁を用いた「穂首刈り」に代わる、農業技術における画期的な転換点。生産性の向上のみならず、収穫後の加工工程や副産物の利用など、弥生社会のあり方に多大な変革をもたらした。

石包丁による「穂首刈り」からの技術的転換

弥生時代前期の日本列島における稲作では、実った稲の穂先のみを一粒ずつ摘み取る「穂首刈り(ほくびがり)」が一般的であった。この時期の収穫具は、磨製石器である石包丁(石庖丁)であり、稲が完熟する時期のばらつきに合わせて、熟したものから順に手作業で摘み取っていた。

しかし、弥生時代中期に入り、大陸から木製農具を補強する刃先としての鉄器や、鉄そのものを加工した鉄鎌(てつれん)が流入・普及すると、収穫方法は劇的な変化を遂げる。鋭利な金属器の登場によって、複数の稲を束ねて根元から一気に切り取る「根元刈り」が可能となった。これにより、収穫に要する時間と労働力は大幅に削減され、農業の作業効率は飛躍的に向上することとなった。

脱穀作業の発生と収穫プロセスの変革

根元刈りの採用は、単に刈り取り効率を高めただけでなく、収穫後の加工プロセス全体にドラスティックな変革を迫ることとなった。穂首刈りでは、刈り取った穂をそのまま高床倉庫などに吊るして貯蔵できたが、根元刈りでは長い茎(藁)がついた状態で収穫されるため、実と茎を分離する脱穀(だっこく)の工程が新たに不可欠となった。

これに対応するため、弥生時代中期以降の遺跡からは、木製の木臼(きうす)竪杵(たてきね)、さらには風の力を利用して籾(もみ)とゴミを選別する道具などが多く出土するようになる。また、刈り取った稲を天日干しにする「稲架掛け(はさかけ)」のような乾燥作業もこの時期に定着したと考えられており、一連の組織的かつ計画的な共同作業の創出につながった。

藁(わら)の利用と弥生社会の構造変化

根元刈りによって得られた重要な副産物が、大量の藁(わら)である。穂首刈りの時代には田野に放置・廃棄されていた茎の部分が、根元刈りによって生活資材として確保できるようになった。この藁は、莚(むしろ)や縄、草鞋(わらじ)などの日用品、さらには住居の屋根を葺く材料として幅広く利用され、人々の生活文化を大いに豊かにした。

さらに、鉄製農具と根元刈りによる収穫効率の向上は、食料貯蔵量の絶対的な増加、すなわち余剰生産物の獲得をもたらした。これが契機となり、富の蓄積や配分をめぐる社会的な格差が生まれ、共同体内部での階層化や、首長層の権力強化が進行した。根元刈りへの移行は、単なる技術の進歩にとどまらず、のちの「クニ」の成立へと向かう弥生社会の構造変化を底流で支えた重要な変革であったのである。

歩く マジで人生が変わる習慣

毎日の何気ない一歩が思考と体調を劇的に改善し、理想の自分へと近づくための具体的で実践的な歩行習慣の書。

日本農業発達史 8―明治以降における 大恐慌以降の日本農業

明治以降の経済変動を軸に、大恐慌期から現代に至るまでの農村構造の変容と政策展開を丹念に描き出す貴重な研究資料。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 壬申の乱で近江朝廷軍を率いて戦ったが敗れ、近江大津宮周辺で自害に追い込まれた人物(のちに弘文天皇と追号)は誰か?
Q. 607年の遣隋使派遣の翌年、小野妹子とともに日本を訪れた隋の答礼使は誰か?
Q. 律令制の七道の一つで、畿内から太平洋側を通って現在の関東・東国へと至る行政区分(道)は何か?