モンロー宣言 (もんろーせんげん)
【概説】
1823年にアメリカ合衆国大統領モンローが表明した、ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を主張する外交方針。日本の幕末から昭和期における対外認識や外交論において、自国の排他的な勢力圏を主張する「東洋モンロー主義」などの比喩・理論的根拠として広く援用された歴史的背景を持つ。
アメリカの「孤立主義」と江戸後期の日本
1823年(文政6年)、アメリカ合衆国第5代大統領ジェームズ・モンローが議会宛ての教書で発表したこの宣言は、欧州列強によるアメリカ大陸への介入を拒否する一方、アメリカも欧州の紛争に関与しないという「孤立主義(不干渉主義)」を明確にしたものである。
当時の日本は江戸幕府の鎖国体制下にあり、この宣言が直接的に幕政へ影響を与えることはなかった。しかし、19世紀前半の日本近海ではロシア、イギリス、そして捕鯨船の増加に伴うアメリカ船の活動が活発化しており、幕府が1825年に異国船打払令を発令するなど、対外緊張が高まる過渡期にあたっていた。のちにアメリカが太平洋進出を進め、ペリー艦隊を派遣して日本の開国を迫る伏線として、このモンロー宣言による自国勢力圏の確立が位置づけられている。
近代日本における「東洋モンロー主義」の台頭
明治後期から昭和期にかけて、このモンロー宣言は日本の外交論壇において、きわめて重要な比喩として用いられるようになった。日露戦争後、東アジアにおける権益を拡大する日本に対し、アメリカをはじめとする列強が警戒を強めると、日本側では「欧米がアメリカ大陸を支配するのと同様に、東アジアの秩序はアジア人の手によって維持されるべきだ」という東洋モンロー主義(アジア・モンロー主義)が唱えられ始めた。
この論理は、ジャーナリストの徳富蘇峰や、後に首相となる近衛文麿らによって展開され、当初は欧米による帝国主義的なアジア支配への対抗言説(アジア主義)としての側面を持っていた。しかし、日本の国力増強とともに、その内実は変容していくこととなる。
帝国主義的膨張の正当化と外交的孤立
昭和期に入り、満州事変や国際連盟脱退を経て日本が国際社会で孤立を深めると、東洋モンロー主義は日本の独占的な勢力圏主張を正当化するための国策の理論武装へと変質した。1934(昭和9)年の天羽声明(外務省情報部長の天羽英二による共同非公式談話)は、中国に対する欧米諸国の財政・軍事援助を拒絶する姿勢を示したものであり、欧米諸国から「アジア版モンロー主義」であるとして激しい非難を浴びた。
本来、アメリカのモンロー宣言は「相互不干渉」を建前とする防衛的なものであったが、日本の「東洋モンロー主義」は、中国大陸への武力進出や東亜新秩序、さらには大東亜共栄圏の建設という排他的な覇権主義を合理化するための都合のよい解釈として利用された。結果としてこの思想的枠組みは、日米の対立を決定的なものとし、太平洋戦争へと突き進む外交路線の根拠となったのである。