憲政本党 (けんせいほんとう)
【概説】
1898年(明治31年)11月、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)の崩壊に伴う憲政党の分裂によって結成された明治期の政党。旧進歩党系(大隈重信系)の議員を中心とし、藩閥や立憲政友会に対抗する野党勢力として活動した。のちの立憲国民党や立憲民政党へとつながる、大正・昭和期の二大政党制の源流の一つである。
隈板内閣の崩壊と「憲政本党」の結成
1898年6月、それまで対立関係にあった板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党が合同し、初の政党内閣結成を目指して憲政党が組織された。これにより日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)が誕生したが、この合同は藩閥に対抗するための野合的な側面が強く、閣僚ポストの配分や党内の主導権をめぐって旧自由党系と旧進歩党系の対立が絶えなかった。
同内閣の文部大臣・尾崎行雄による「共和演説事件」(日本で仮に共和制が敷かれたら三井や三菱が大統領になるだろうという趣旨の発言が不敬とみなされた事件)を契機に党内対立は決定的なものとなった。旧自由党系は、旧進歩党系を排除するために先手を打ち、憲政党を解党した上で、自派のみで同名の「憲政党」を再結成するという奇策に出た。これに対抗し、締め出された大隈重信ら旧進歩党系が、同年11月に結成したのが憲政本党である。党首にあたる総理には大隈重信が就任した。
「桂園体制」下における万年野党化と内部対立
憲政本党の結成後、日本の政界は大きな地殻変動を迎える。ライバルである(新)憲政党は、1900年に伊藤博文を総裁に仰ぐ立憲政友会へと合流した。これにより、政界は巨大政党となった政友会と、桂太郎や西園寺公望が交互に政権を担当する「桂園体制」(藩閥・官僚勢力)が主導するようになり、憲政本党は衆議院における第二党として、長い野党生活を余儀なくされることとなった。
憲政本党は、地租増税反対や、日露戦争前後の対外強硬論(開戦論およびポーツマス条約不満による日比谷焼打事件への支持など)を掲げて政府や政友会を批判した。しかし、長期にわたる政権離脱は党内に焦りを生み、政権獲得のために藩閥(桂太郎ら)との提携を模索する「改革派」と、大隈重信を擁して純然たる野党路線を堅持しようとする「非改革派」との間で深刻な対立が発生した。この内紛の結果、1907年に大隈は総理を辞任し、憲政本党は強力な指導者を失うこととなった。
立憲国民党への発展と歴史的意義
大隈の退陣後、指導部を失った憲政本党は、政友会の一党優位に対抗するため、他の小会派との大同団結を模索するようになった。1910年(明治43年)3月、憲政本党は戊申倶楽部や無所属共同会などの他会派と合同し、新たに立憲国民党を結成して発展的に解消した。
憲政本党自体は政権を獲得することなく消滅したが、その系譜は立憲国民党から憲政会、そして昭和期の立憲民政党へと引き継がれていく。立憲政友会が地主や地方新興財閥を基盤としたのに対し、憲政本党とその系譜は大都市の商工業者やインテリ層、三菱などの大財閥を支持基盤とし、のちの大正デモクラシー期における二大政党制の一翼を担う重要な源流となった点に、その歴史的意義がある。