フィルモア
【概説】
第13代アメリカ合衆国大統領。東インド艦隊司令長官のペリーに親書(国書)を託して日本へ派遣し、長らく鎖国体制を敷いていた江戸幕府に対して開国や国交樹立、捕鯨船への燃料や食料の補給などを強く求めた人物である。
環太平洋戦略と日本開国の動機
19世紀半ばのアメリカ合衆国は、西漸運動(フロンティアの拡大)の結果として太平洋岸に到達し、清国など東アジアとの貿易に関心を深めていた。同時に、当時の北太平洋はアメリカの捕鯨船にとって重要な漁場となっており、数多くの船がこの海域で活動していた。このような背景から、遭難した乗組員の保護や、蒸気船の運行に不可欠な石炭、食料、水の補給地を日本列島に確保することがアメリカ政府の急務となった。1850年に大統領に就任したホイッグ党のミラード・フィルモアは、こうした経済的・地政学的な要請を受け、日本を開国させる方針を具体化させた。
ペリーへの国書授与と具体的な要求
フィルモアは1852年、東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーに日本開国を命じ、自身の親書(大統領国書)を託した。この国書においてフィルモアは、両国の友好関係の樹立に加え、遭難したアメリカ人船員の救助と人道的な処遇、そして日本の港を石炭や食料の補給地として提供することを求めた。1853(嘉永6)年、浦賀に来航したペリーはこの国書を江戸幕府に提出し、翌年の回答を迫った。フィルモアの国書は、それまで「祖法」として維持されてきた幕府の鎖国政策を根底から揺るがすこととなった。
和親条約の締結と日本史における意義
翌1854年、ペリーが再び来航した際、大統領はすでに後任のフランクリン・ピアースに交代していたが、交渉はフィルモアの国書に示された要求に沿って進められた。その結果、日本側は要求を受け入れざるを得なくなり、日米和親条約が締結された。これにより、下田と箱館(函館)の2港が開港され、日本は実質的な開国を迎えることとなった。フィルモアが主導した外交政策は、単にアメリカの便益を確保したにとどまらず、江戸幕府の権威を失墜させ、その後の尊王攘夷運動や幕末の政局混乱、ひいては明治維新へとつながる激動の時代の引き金を引くこととなった。