遠の朝廷

重要度
★★

遠の朝廷 (とおのみかど)

7世紀後半〜11世紀頃

【概説】
古代日本において、九州の筑前国(現・福岡県)に置かれた地方行政機関「大宰府」の異名。西海道(九州一円)の統治のみならず、対外外交や国防において中央政府(朝廷)から委任された広範な独立権限を行使した、まさに「遠くにある朝廷」としての性格を示す言葉である。

「遠の朝廷」の誕生と東アジア情勢

「遠の朝廷(とおのみかど)」という言葉は、万葉集などの文学作品にも見られる大宰府の雅称である。この機関が事実上の「第二の都」として機能し始めた背景には、7世紀半ばの東アジアにおける国際緊張があった。663年の白村江の戦いで倭(日本)が唐・新羅の連合軍に大敗すると、天智天皇は対馬や壱岐、筑紫に防人を配置し、水城や大野城などの朝鮮式山城を築いて防衛線を敷いた。この防衛体制の中核、および大陸からの使者を迎える外交の最前線として整備されたのが大宰府であり、これがのちに「遠の朝廷」と呼ばれる基盤となった。

当初は「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」などと呼ばれていたが、大宝律令(701年)の制定にともなう律令体制の確立により、地方行政組織の枠組みを超えた特別官司である大宰府へと昇格し、名実ともに「遠の朝廷」としての陣容を整えることとなった。

外交・軍事における独立した権限

大宰府が「遠の朝廷」と称された最大の理由は、通常の地方官衙(国衙など)とは比較にならないほどの強大な権限を有していた点にある。行政面では九州諸国(西海道)を統轄し、管内の国司に対する監督権や人事権の一部を行使した。しかし、それ以上に重要だったのが外交と軍事における自立性である。

対外関係において、大宰府は外国の使節(新羅使や渤海使など)を応接する窓口であり、鴻臚館(筑紫館)を管理して貿易の管理・統制を行った。中央の朝廷の判断を仰ぐ前に、大宰府独自の判断で交渉や審査を行うケースも多く、事実上の外務省の役割を果たしていた。軍事面でも、防人や兵士の徴発・配置、要衝の警備を直接指揮する権限を持ち、西日本一帯の最高軍事司令部としての機能を持っていた。

「遠の朝廷」の変容と終焉

律令体制の全盛期において絶大な権力を誇った「遠の朝廷」も、時代の進展とともにその性格を変化させていった。平安時代中期以降、中央集権的な律令制が弛緩し、受領国司による徴税請負制へと移行すると、大宰府の権能も徐々に変質していった。しかし、11世紀前半の刀伊の入寇(1019年)に際しては、大宰権帥であった藤原隆家の主導のもと、中央の命令を待たずに現地の武士団を動員して撃退に成功するなど、依然として独自の軍事指揮権と高い自立性を発揮した。

その後、日宋貿易の展開とともに太宰府のあった地域は経済的要衝としての性格を強めるが、鎌倉時代の幕府開設や元寇による鎮西探題の設置などを経て、政治・軍事的な中枢としての「遠の朝廷」の機能は終焉を迎え、歴史の表舞台から徐々に退いていくこととなった。

大宰府の成立と古代豪族 (49) (同成社古代史選書 49)

古代国家の対外戦略と地方豪族の動向を紐解き、九州の政治的要衝としての大宰府が形作られた過程を検証する必読の専門書。

列島の古代 (6) (日本古代の歴史 6)

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