若松城
1384年〜1874年
【概説】
福島県会津若松市にある、会津藩の藩庁が置かれた平山城。地元では「鶴ヶ城」の名で親しまれ、幕末の会津戦争(戊辰戦争)において新政府軍の猛攻に耐えた激しい籠城戦の舞台として知られる。
黒川城から若松城への変遷と会津藩
若松城の前身は、1384年(至徳元年)に蘆名直盛が築いた黒川城にさかのぼる。戦国時代末期に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼしてこの地を領有したが、豊臣秀吉の奥州仕置によって没収され、豊臣大名である蒲生氏郷が入封した。氏郷は黒川の地を「若松」と改め、近代的な城郭へと大規模に改修して7重の天守を築いた。これが「若松城(鶴ヶ城)」の始まりである。
江戸時代に入ると、加藤氏の支配を経て、1643年に徳川家光の異母弟である保科正之が23万石で入封した。以後、会津松平家(保科氏から改姓)が幕末までこの地を治め、若松城は東北地方における幕府擁護の最重要拠点として機能した。
会津戦争における籠城戦と近代への終焉
1868年(慶応4年/明治元年)、戊辰戦争が勃発すると、前京都守護職であった藩主・松平容保率いる会津藩は、新政府軍に対抗する「奥羽越列藩同盟」の中心的存在となった。新政府軍が会津盆地へ侵入すると、会津藩兵は若松城に立てこもり、約1ヶ月におよぶ激しい籠城戦を展開した。
新政府軍の圧倒的な近代兵器による猛砲撃に晒されながらも、若松城はその堅牢さを発揮して持ちこたえた。この戦闘のさなか、城から上がる煙を見て落城と誤認した少年兵グループ「白虎隊」の飯盛山での自刃や、山本八重(後の新島八重)らによる銃撃戦などの悲劇・逸話が生まれた。激戦の末に会津藩は降伏し、開城された若松城は、明治政府の方針により1874年(明治7年)までに天守などの建物がすべて取り壊された。現在の天守は昭和期に再建されたものである。