明治維新
【概説】
幕末の王政復古から、廃藩置県や諸改革を経て、日本が近代的な天皇制国家へと生まれ変わった一連の政治・社会的変革。欧米列強の圧力に抗するため、幕藩体制という封建制を解体し、資本主義経済と立憲制に基づく中央集権的な近代国民国家を樹立した国家改造運動である。
明治維新の定義と歴史的時期
明治維新とは、19世紀後半の日本において、江戸幕府の統治機構を打倒し、天皇を中心とする新政府のもとで推進された一連の近代化改革を指す歴史概念である。その始期と終期については様々な見解があるが、一般的には1867年(慶応3年)の大政奉還および王政復古の大号令による新政府の樹立を起点とし、1871年(明治4年)の廃藩置県による国内統一、あるいは1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の発布による立憲体制の確立に至るまでの期間とされている。
この変革は、単なる政権交代にとどまらず、政治体制、経済構造、身分制度、社会風俗から文化・思想に至るまで、日本社会の根底を覆す画期的な転換であった。
新政府の成立と旧体制の打倒
19世紀半ば、ペリー来航に端を発する開国によって、日本は欧米列強の圧倒的な軍事力と経済力を前に国家存亡の危機に立たされた。これに対し、外圧を排して天皇を尊ぶ尊王攘夷運動が全国的に高まりを見せたが、薩摩藩や長州藩などは列強との直接的な武力衝突(薩英戦争・四国艦隊下関砲撃事件)を経て攘夷の不可能を悟り、近代化による富国強兵を目指す討幕運動へと路線を転換した。
1867年、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い政権を朝廷に返上したが、討幕派は同年末に王政復古の大号令を発して幕府の廃絶と天皇親政を宣言した。これに反発した旧幕府軍と新政府軍の間で1868年より戊辰戦争が勃発したが、新政府は近代的な軍備と「錦の御旗」の権威を背景にこれを鎮圧し、国内の軍事的制圧を完了させた。同時に、新政府は五箇条の御誓文を発布し、「公議輿論の尊重」や「開国和親」など、新しい国家建設の基本方針を国内外に明示した。
封建制の解体と中央集権体制の確立
新政府にとって最大の課題は、全国に割拠する約260の藩を解体し、天皇を中心とする強力な中央集権体制を構築することであった。まず1869年(明治2年)に版籍奉還を行わせて領地(版)と領民(籍)を天皇に返還させたが、旧藩主が引き続き知藩事として統治にあたったため、改革は不十分であった。
そこで1871年(明治4年)、新政府は御親兵(後の近衛兵)の武力を背景に廃藩置県というクーデター的な断行に踏み切った。知藩事を罷免して東京に集め、代わりに中央から府知事・県令を派遣することで、数百年続いた封建的な幕藩体制を完全に消滅させ、国家が直接国民を統治する一元的な支配体制を確立したのである。
富国強兵と「三大改革」
近代国民国家を形成し、欧米列強と肩を並べる不平等条約の改正を実現するためには、国力の増強(富国強兵)と産業の近代化(殖産興業)が急務であった。これを支えたのが、明治政府が推進した三大改革である。
第一に、1872年(明治5年)の学制の発布である。身分や性別に関わらず全ての国民に初等教育を受けさせる方針を示し、近代国家を支える均質な国民の育成を図った。第二に、1873年(明治6年)の徴兵令である。これにより、士族による特権的な軍事力は否定され、満20歳の男子を兵役につかせる国民皆兵の近代軍隊が創設された。第三に、同年の地租改正である。土地の所有権を法的に認め(地券の発行)、地価の3%を金納させることで、政府は気候や米価の変動に左右されない安定した国家財源を確保した。これにより、日本の資本主義的発展の基礎が築かれた。
また、これらの政策に合わせて身分制度も再編され、「四民平等」が謳われた。しかし、特権を奪われ秩禄(家禄)を失った士族の不満は高まり、西郷隆盛らが主導した西南戦争(1877年)などの士族反乱を引き起こすこととなった。
明治維新の歴史的意義と世界的背景
世界史的な視点から見ると、明治維新は19世紀の西洋帝国主義がアジアへ波及する中で引き起こされた「上からの防衛的近代化」であった。清(中国)やインドが列強の半植民地・植民地へと転落していく中、日本は旧支配層の一部(下級武士)が自ら主体となって旧体制を打倒し、急進的な西欧化と資本主義化を成し遂げた点で、非西洋世界における極めて稀有な成功例とされている。
一方で、この急速な近代化は、天皇への絶対的な権力集中(天皇制絶対主義)や、地主制のもとでの農民の窮乏、労働者の過酷な労働環境といった新たな社会矛盾を生み出した。さらに、富国強兵路線は必然的に大陸への進出を志向し、後の日清戦争や日露戦争、そしてアジア太平洋戦争へと至る日本の帝国主義的な対外膨張政策の起点ともなったのである。