キリスト教の禁止(邪宗門)

五榜の掲示の第三札において、江戸時代から引き続き固く禁止された宗教に関する規定は何か?
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キリスト教の禁止(邪宗門) (きりすときょうのきんし(じゃしゅうもん)

1868年〜1873年

【概説】
明治新政府が慶応4年(1868年)に掲出した五榜の掲示の第三札において、江戸幕府の政策を踏襲し、キリスト教(邪宗門)を引き続き厳禁とした政策。その後、長崎の教徒弾圧に対する欧米列強の激しい抗議を受け、明治6年(1873年)に高札が撤去されて実質的に禁教が解かれた。

王政復古と五榜の掲示による禁教政策の継承

慶応4年(1868年)3月、成立間もない明治新政府は、新たな統治の基本方針を民衆に示すため、全国に五榜の掲示(ごぼうのけいじ)を立てた。その第三札には「切支丹宗門の儀は是迄御制禁の通り固く相守るべき事」と記され、さらには「邪宗門の儀は固く禁止の事」として、江戸幕府以来のキリスト教禁教政策を引き継ぐことが明記された。

当時の新政府は、天皇を中心とする神道的な国家統合を目指す「祭政一致」の理念を掲げ、神道による国民教化を図る大教宣布の政策を推進していた。そのため、キリスト教をはじめとする外来の宗教や、国家の統治思想にそぐわない異端の信仰は、国家の秩序を乱す邪宗門として徹底的に排除されるべき対象と見なされていたのである。

浦上四番崩れと新政府の苛烈な弾圧

この禁教政策が極めて過酷な弾圧として実行されたのが、長崎・浦上の潜伏キリシタンに対する弾圧事件である浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)である。幕末の慶応3年(1867年)に発覚したこの事件に対し、新政府は幕府の強硬な姿勢をそのまま引き継ぎ、明治元年(1868年)から数年にわたり、およそ3,300人もの浦上の教徒を西日本各地の藩へ流罪(配流)とした。

教徒たちは配流先の各藩で棄教を強要され、水責めや雪責めなどの拷問、過酷な労働を科された。その結果、飢餓や病、あるいは拷問の苦痛によって600名以上が命を落とすという痛ましい殉教事件となった。

岩倉使節団の派遣と欧米列強の抗議

このような新政府による苛烈なキリスト教弾圧は、開港場に駐在する各国外交官を通じて直ちに欧米諸国へと伝えられた。近代的な「信教の自由」を基本的人権として重んじる欧米列強は、この弾圧を野蛮で非人道的な行為であるとして激しく非難した。

明治4年(1871年)に出発した岩倉使節団がアメリカやヨーロッパ諸国を歴訪した際も、各国の政府高官や民衆から日本のキリスト教弾圧に対する厳重な抗議が浴びせられた。条約改正の予備交渉を目的に派遣された使節団であったが、キリスト教の弾圧を続ける限り、欧米列強から近代文明国として認められず、不平等条約の改正も到底不可能であることを首脳陣は痛感させられた。

禁教令の撤廃と信教の自由への道程

列強からの強い外圧に抗しきれず、また近代国家としての国際的な体裁を整える必要に迫られた新政府は、明治6年(1873年)2月、ついに「定法は一般に行き渡った」という名目で五榜の掲示を撤去した。これにより、キリスト教の禁教令は実質的に撤廃されることとなった。同時に、配流されていた浦上の教徒たちも釈放され、帰郷が許された。

この掲示撤去によって、豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸幕府の禁教令以来、約300年近くにわたって続いた国家権力によるキリスト教弾圧はついに終焉を迎えた。これは、のちの明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法(明治憲法)第28条において、「安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務ニ背カザル限ニ於テ」という条件付きながらも信教の自由が明記されるに至る、日本の近代化・法治国家化における重要な転換点となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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