浦上信徒弾圧事件 (うらがみしんとだんあつじけん)
【概説】
幕末から明治初期にかけて、長崎の浦上村で発覚した潜伏キリシタンに対して、江戸幕府および明治新政府が断行した大規模な宗教弾圧事件。「浦上四番崩れ」とも呼ばれ、近代日本における信教の自由と対外関係のあり方を大きく揺るがした画期となった。
「信徒発見」と弾圧の端緒
1865年(元治2年)、長崎に建立された大浦天主堂で、浦上村の潜伏キリシタンがフランス人宣教師プチジャンに密かに信仰を告白する「信徒発見」が起こった。これを機に、浦上村の信徒たちは公然とキリスト教徒としての活動を始め、仏式の葬儀を拒否するなど既存の寺請制度に公然と反旗を翻した。
江戸幕府(長崎奉行所)はこれを厳しく取り締まり、1867年(慶応3年)に信徒らの一斉検挙に踏み切った。これが「浦上四番崩れ」と呼ばれる一連の弾圧の始まりである。直後に幕府が崩壊したため処理は一時中断されたが、問題は新しく誕生した明治新政府へと引き継がれることとなった。
「五榜の掲示」と新政府による全国配流
1868年(慶応4年)、成立直後の明治新政府は、民衆に向けた当面の基本方針として五榜の掲示を発表した。その第三札において「キリスト教(邪宗門)の禁止」が従来通り掲げられ、新政府も幕府の禁教政策を継承する姿勢を明確にした。天皇を中心とする神道的な国家統合を目指す新政府にとって、キリスト教は容認できない存在であったためである。
新政府は長崎裁判所総督の沢宣嘉らの主導のもと、浦上村の信徒たちに対する強制改宗を画策した。信徒たちがこれに屈しなかったため、政府は1868年から1870年にかけて、浦上の全信徒約3400人を萩、津和野、名古屋、金沢などの諸藩へと分散して流罪に処す「旅出し(たびだし)」を断行した。配流先では改宗を迫る凄惨な拷問が加えられ、多くの殉教者(死者)を出す惨事となった。
国際世論の批判と禁制の撤廃
この前近代的な宗教弾圧は、条約改正や近代化を進めようとする日本政府にとって致命的な外交問題となった。イギリス、アメリカ、フランスなどの駐日公使らは「文明国にあるまじき暴挙」として新政府に対して激しい抗議を展開した。
1871年(明治4年)に派遣された岩倉使節団は、欧米列強との条約改正交渉の席上で、このキリスト教弾圧を激しく糾弾された。欧米社会からの拒絶を目の当たりにした岩倉具視や木戸孝允らは、禁教政策の継続が近代化や条約改正の最大の障害であることを痛感し、本国へ政策の変更を強く要請した。
その結果、明治政府は1873年(明治6年)2月、キリスト教禁制の高札を撤廃。配流されていた信徒たちは釈放されて浦上へと帰還することができた。この事件とその解決は、日本が国際社会(万国公法)に受け入れられるために、事実上の信教の自由を認めざるを得なくなった転換点として、日本近代史において極めて重要な意義を持っている。