三権分立制
【概説】
国家の権力を立法・行政・司法の三つに分割し、互いに抑制と均衡を保たせることで権力の濫用を防ぐ近代的な政治制度。日本では明治元年(1868年)の政体書において初めて形式的に導入されたが、当時は強力な中央集権体制の構築が優先され、実態は太政官への権力集中であった。
近代国家建設と三権分立思想の移入
国家権力を立法、行政、司法の三権に分割し、相互に抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)を図る三権分立制は、18世紀にフランスの思想家モンテスキューが著書『法の精神』で提唱した近代民主主義の基本原理である。日本では幕末から明治初期にかけて、福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家を通じて西洋の政治思想として紹介された。明治新政府にとって、不平等条約の改正や欧米列強に伍する近代国家を建設するためには、前近代的な権力構造から脱却し、西洋諸国に倣った近代的な国家制度の体裁を整えることが急務であった。
政体書における形式的な導入
日本において三権分立の概念が国家の統治機構として初めて明文化されたのは、明治元年(1868年)閏4月に発布された政体書においてである。福岡孝弟や副島種臣らが起草したこの文書は、アメリカ合衆国憲法などを参考に作られ、政府の権力を立法(議政官)、行政(行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官)、司法(刑法官)の七官に分割する方針を打ち出した。これは「天下の権力、総てこれを太政官に帰す」と権力の集中を宣言しつつも、その権力行使のプロセスを三つに分かつことで権力の偏重や専制を防ごうとした画期的な試みであった。
太政官への権力集中と分立の実態
しかし、政体書が規定した三権分立制は、あくまで欧米の制度を模倣した形式的なものに留まった。当時の明治新政府は、いまだ戊辰戦争の最中であり、旧幕府勢力を完全に一掃し、全国を統治する強力な中央集権体制を早急に確立する現実的な必要性に迫られていた。そのため、実態としては最高機関である太政官、とりわけ実務を担う行政部門に権力が著しく集中していた。
立法機関である議政官も、下局こそ諸藩からの代表を集めたものの、上局は政府の高級官僚で占められており、行政と立法の分離は極めて不十分であった。さらに翌明治2年(1869年)の官制改革で議政官は廃止され、初期の三権分立の試みは事実上後退することとなった。
大日本帝国憲法から日本国憲法へ
その後、自由民権運動の高まりや立憲国家樹立への要求を背景に、明治22年(1889年)に大日本帝国憲法(明治憲法)が制定された。これにより、帝国議会(立法)、国務大臣・内閣(行政)、裁判所(司法)という三権分立の枠組みが一応は整えられた。しかし、大日本帝国憲法下では天皇が国の元首として統治権を総覧する権限が強大であり、特に軍の最高指揮権である統帥権が内閣や議会から独立(統帥権の独立)していたことなどから、真の三権分立としては不完全なものであった。
厳格な意味での三権分立制が日本に定着するのは、第二次世界大戦後の昭和22年(1947年)、国民主権を基本原理とする日本国憲法が施行され、国会、内閣、裁判所の役割と権限が相互に独立した機関として明確に規定されてからのことである。