唐古・鍵遺跡

重要度
★★

唐古・鍵遺跡 (弥生時代前期〜後期)

【概説】
奈良県磯城郡田原本町に位置する、弥生時代最大級の環濠集落遺跡。約700年間にわたり途絶えることなく営まれた畿内地域の拠点集落であり、高度な青銅器鋳造技術を示す遺構や、「楼閣」が描かれた土器が出土したことで名高い。

幾重もの環濠に囲まれた畿内屈指の拠点集落

唐古・鍵遺跡は、奈良盆地の中央部に位置する。弥生時代前期(紀元前5世紀頃)から後期(紀元3世紀頃)の全期間にわたって定住が行われた、極めて息の長い遺跡である。遺跡の総面積は約30万平方メートル(東京ドーム約7個分)に及び、弥生時代の遺跡としては日本屈指の規模を誇る。

この遺跡の最大の特徴は、集落の周囲に掘られた多重の環濠(かんごう)である。外敵からの防御や排水、あるいは区画整理を目的としたとみられる濠が、複雑に巡らされていた。集落内からは多数の竪穴住居跡や高床倉庫跡、貯蔵穴などが検出されており、大勢の住民が共同体を形成して組織的な生活を送っていたことがうかがえる。

「ものづくりセンター」としての高度な生産技術

唐古・鍵遺跡は、単なる農耕集落にとどまらず、当時の最先端技術が集まる「工業的センター」としての役割を果たしていた。なかでも注目されるのが、青銅器の鋳造(ちゅうぞう)遺構である。銅鐸の鋳型(いがた)や送風管、ふいごの羽口などが多数出土しており、この地で高度な金属器生産が行われていたことが証明されている。

また、木製品の加工技術も極めて高かった。農具や容器だけでなく、優れた木工技術を必要とする工芸品や武器なども製作されていた。さらに、土器の表面に鉄分を焼き付ける「褐鉄鉱容器」など、特殊な技術を用いた生産活動の痕跡も確認されており、周辺地域に対する技術的・経済的な優位性を持っていたと考えられている。

弥生建築を塗り替えた「楼閣」の絵画土器

この遺跡を決定的に有名にしたのが、1991年に出土した「楼閣(ろうかく)」が描かれた土器片(絵画土器)である。そこには、2階建て以上の高層建築物とみられる建物が描かれており、屋根の端には鳥のような装飾が施されていた。

それまで弥生時代の建築は平屋の竪穴住居や平屋の高床倉庫が中心と考えられていたが、この発見により、当時の日本にすでに多層階の記念碑的建造物を造る技術、あるいはそれを希求する宗教的・政治的な権威が存在していたことが明らかとなった。この絵画土器に描かれた楼閣は、現在、遺跡公園内に復元され、同遺跡のシンボルとなっている。

ヤマト王権前夜における歴史的意義と纒向遺跡への過渡

唐古・鍵遺跡は、弥生時代中期から後期にかけて大和盆地における政治・経済の中心地として君臨していた。しかし、弥生時代終末期(3世紀初頭)になると、その拠点的な機能は急速に衰退していく。これと入れ替わるように、大和盆地の東南部において、前方後円墳の出現や初期ヤマト王権の誕生の舞台となる纒向(まきむく)遺跡が急速に台頭する。

このことから、唐古・鍵遺跡は、部族国家的な地域社会から、広域を支配する「連合政権(ヤマト王権)」へと社会が移行する過渡期の様相を現代に伝える、日本国家形成史において極めて重要な遺跡として位置づけられている。

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