藩閥(藩閥政府) (はんばつ(はんばつせいふ)
【概説】
明治時代から大正時代初期にかけて、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩(とくに薩摩・長州)の出身者が政府の要職を独占し、政治の主導権を握った体制のこと。倒幕の中心となった雄藩出身者によって形成され、強力な指導力で日本の近代化を推し進めた一方で、権力の私物化であるとして自由民権運動や護憲運動による激しい批判の的となった。
藩閥政府の成立と薩長土肥の台頭
明治新政府は、天皇を頂点としつつも、実質的な権力は倒幕運動の中心となった薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)の出身者、いわゆる薩長土肥によって握られていた。王政復古の大号令直後こそ、公家や大名が要職を占めたものの、版籍奉還や廃藩置県を経て中央集権体制が整備される過程で、西郷隆盛・大久保利通(薩摩)や木戸孝允(長州)、板垣退助(土佐)、大隈重信(肥前)らの実力者が政治の実権を掌握していった。
この新体制のもとで、旧幕臣や戊辰戦争で敗者の側に回った諸藩の出身者は政府の中枢から排除され、極端な人材の偏りが生じた。近代国家建設という急務を果たすため、強力な指導力と意思決定の迅速さが求められたことが、結果として一部の出身者による権力独占を正当化する背景となった。
「有司専制」への批判と自由民権運動
しかし、藩閥内部でも路線の対立が生じる。1873年(明治6年)の明治6年の政変において、征韓論をめぐって敗れた西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが政府を去ると、政府内の権力はさらに大久保利通を中心とする薩長出身者へと絞り込まれていった。
下野した板垣退助らは、翌1874年に民撰議院設立建白書を左院に提出した。この中で、当時の政府のあり方を一部の官僚による独裁、すなわち「有司専制」であると厳しく糾弾し、国民の政治参加を求めた。これが自由民権運動の発端である。在野の士族や豪農層は、藩閥政府による租税負担の増大や強権的な政策に対して不満を募らせ、国会開設や憲法制定を求める運動を全国規模で展開した。これに対し藩閥政府は、集会条例や保安条例などを制定して言論弾圧を加える一方で、世論の圧力に抗しきれず漸進的な立憲制への移行を約束せざるを得なくなった。
内閣制度の創設と薩長支配の確立
大久保や木戸ら「維新の三傑」が世を去った後も、伊藤博文や山県有朋(長州)、黒田清隆や松方正義(薩摩)ら第二世代が藩閥の指導者として台頭した。1885年(明治18年)に創設された内閣制度において、初代内閣総理大臣となった伊藤博文が組閣した第1次伊藤内閣では、全10人の閣僚のうち実に7人が薩長出身者で占められており、藩閥政府の性格がいっそう明確なものとなった。
さらに藩閥は、大日本帝国憲法の制定過程において、天皇の大権を強化し、議会の権限を相対的に低く抑える工夫を凝らした。また、枢密院や貴族院、さらには軍部といった、民選の衆議院の影響が及ばない「超然的な」国家機関を多数用意し、そこに藩閥出身者を配置することで、議会開設後も長きにわたって権力を維持する強固なシステムを構築した。
藩閥の終焉と政党政治への移行
1890年(明治23年)に帝国議会が開設されると、藩閥政府は超然主義(政府は政党の意向に左右されず、独自の立場を貫くという方針)を掲げたが、予算審議などを通じて民党(政党)の激しい抵抗に直面した。次第に伊藤博文らは、円滑な国政運営のためには強力な政党の支持が不可欠であると痛感し、自ら立憲政友会を創設(1900年)するなど、政党勢力との妥協や提携(情意投合)を図るようになった。
大正時代に入ると、藩閥の巨頭であった山県有朋を中心とする長州閥への反発が国民の間で頂点に達する。1913年(大正2年)には「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動が勃発し、長州閥の桂太郎内閣が退陣に追い込まれた(大正政変)。そして1918年(大正7年)、米騒動の責任をとって寺内正毅内閣(長州閥)が総辞職し、立憲政友会総裁の原敬が日本初の本格的政党内閣を組織した。これにより、半世紀に及んだ藩閥政府による支配は事実上終焉を迎え、大正デモクラシーのうねりの中で政党政治の時代へと移行していったのである。