四民平等
【概説】
明治維新期において、江戸時代の身分制度を解体し、天皇・皇族以外のすべての国民を法の下の平等に置こうとした一連の社会・制度改革。近代的な国民国家を建設するため、旧来の特権や身分制的な障壁を撤廃し、中央集権体制と富国強兵政策を推進する基盤を築いた。
近代的国民国家の創出と身分制の解体
江戸時代における幕藩体制は、「士」を支配層とし、「農・工・商」を被支配層とする身分制度によって維持されていた。近年の歴史学の知見によれば、これは単なる四層の序列ではなく、特権階級である武士と、それ以外の平民(百姓・町人)という二分法的な身分構造であったことが指摘されている。これに加え、さらにその下位には社会的に周縁化された賎民身分が置かれていた。
1868年に成立した明治新政府は、欧米列強に対抗しうる近代的な独立国家(国民国家)を建設するという至上命題を抱えていた。そのためには、幕藩体制下で細分化・分断されていた人々を「日本国民」として均質化し、国家のために人的・物的な資源を効率よく動員できる体制を整える必要があった。そこで新政府は、旧来の身分制や特権を打破し、すべての人々を国家の直接的な支配下に置く四民平等の政策を強力に推し進めることとなった。
身分呼称の再編と解放令
四民平等の第一歩は、1869年(明治2年)の版籍奉還の直後に実施された身分呼称の再編であった。旧公卿や旧大名を新たに「華族」とし、武士階級を「士族」、それ以外の農・工・商を「平民」と改称した。さらに、翌1870年には平民に苗字の公称が許可され(平民苗字許容令)、他身分との通婚や職業選択の自由、居住や移転の自由も徐々に認められていった。
そして1871年(明治4年)には、いわゆる「解放令(穢多非人等廃止令)」が布告された。これにより、江戸時代を通じて不当な差別を受けてきた賎民身分の呼称が廃止され、身分や職業の上で平民と同等として扱われることとなった。法制上において、日本の身分制度はここに大きな転換点を迎えたのである。
士族特権の剥奪と国民の均質化
四民平等は、単に平民の権利を拡大するだけではなく、かつての支配層であった武士(士族)が持っていた様々な特権を剥奪する過程でもあった。1872年の「血税」の布告を経て、1873年(明治6年)に徴兵令が施行されると、軍備を担うのは士族の専売特許ではなくなり、満20歳以上の男子全員に兵役の義務が課された。
さらに、新政府の財政を圧迫していた士族への家禄支給を断ち切るため、1876年(明治9年)に秩禄処分が断行された。同年には廃刀令も出され、武士の魂とされた帯刀の特権も失われた。これにより、士族は経済的・社会的特権を完全に失い、四民平等の原則が実質的なものへと近づいていった。これに不満を持った一部の士族は、西南戦争(1877年)などの士族反乱を起こすが、新政府の徴兵軍によって鎮圧され、武力による反抗は終息することとなる。
四民平等の歴史的意義と残された課題
四民平等は、近代日本が国民国家を形成する上で不可欠な政策であり、個人の能力や努力に基づく立身出世を可能にする社会的流動性を生み出した点で極めて大きな歴史的意義を持つ。近代的な学校制度(学制)の導入や、地租改正を通じた土地の私有権確立と相まって、日本における資本主義経済発展の強力な基盤となった。
しかし、この政策には限界や矛盾も存在した。天皇を絶対的な頂点とし、その下に特権階級としての「華族」を置くという新たな身分秩序が形成されたため、完全な社会的平等が実現したわけではなかった。戸籍上も「華族」「士族」「平民」という族称の記載は第二次世界大戦後の改革まで残り続けた。また、「解放令」によって法的な差別が撤廃されたものの、地域社会における旧来の偏見や実質的な差別は温存され、近代以降も深刻な未解放部落問題として日本社会に影を落とすこととなった。