内国勧業博覧会
【概説】
明治政府が主導し、国内産業の発展と新技術の普及を促す目的で開催された大規模な品評会。内務卿・大久保利通の提唱により、1877年の第1回から1903年の第5回まで計5回にわたって実施された。日本の産業近代化(殖産興業)を牽引し、欧米の先進技術や国内の優れた美術・工芸品を広く紹介する場として重要な役割を果たした。
大久保利通と殖産興業——博覧会開催の背景
明治維新後、近代化を急ぐ明治政府にとって、最大の課題は欧米列強に対抗しうる経済力と軍事力を身につける「富国強兵」であった。1873年の岩倉使節団による外遊から帰国した大久保利通は、イギリスをはじめとする西洋の工業化社会に衝撃を受け、国家主導による産業育成、すなわち「殖産興業」の必要性を痛感した。大久保は、欧米諸国が競うように開催していた万国博覧会の効果に着目し、国内の産業・技術の向上を図るため、日本独自の総合博覧会を企画した。
こうして1877年、東京の上野公園を会場に第1回内国勧業博覧会が開催された。当時は士族の反乱である西南戦争の最中であったが、政府は開催を強行した。これは、武力による国内対立の時代に終止符を打ち、これからは実業の振興によって国力を高めるべきだという、政府の強い姿勢を示すデモンストレーションでもあった。
技術と美術の振興——博覧会がもたらした近代化の変遷
博覧会は回を重ねるごとに規模を拡大し、単なる品評会の枠を超えて最先端技術のショーケースとなっていった。会場では農業、工業、機械、美術などの部門ごとに審査が行われ、優秀な出品物には「褒状」や「賞牌」が授与された。これにより、全国の技術者や職人の間で競争意識が高まり、近代的な製品開発の意欲が刺激された。
第2回(1881年)では、ジョサイア・コンドル設計の煉瓦造美術館が建設され、衰退の危機にあった日本の伝統美術・工芸品の保護と海外へのアピール(ジャポニスムの潮流への呼応)が試みられた。さらに第3回(1890年)では、会場内に日本初の路面電車(スプレーグ式電車)が走ったほか、初の電灯(アーク灯)による夜間開館が行われ、大衆に「電気の時代」の到来を強く印象づけた。このように、博覧会は新しい技術を国民に視覚的に理解させ、生活の近代化を促す教育的な役割も果たしたのである。
地方開催と「帝国」への傾斜——博覧会の歴史的意義
当初、博覧会は東京(上野)を主会場として開催されていたが、第4回(1895年)は平安遷都1100年記念事業を兼ねて京都で開催された。そして最後の開催となった1903年の第5回内国勧業博覧会は、日清戦争後に工業都市として急成長していた大阪で行われた。この第5回博覧会では、入場者数が400万人を超え、規模・内容ともに過去最大となったが、そこには「日露戦争前夜」という時代の影が色濃く反映されていた。
第5回大阪博覧会では、欧米の列強に並ぶ「帝国」となった日本を誇示するため、「学術人類館」が設置された。ここでは、当時の日本が統治・影響下に置きつつあった台湾の高砂族、アイヌ、琉球、朝鮮などの人々を民族衣装で居住させ、展示・観察の対象とした。この展示はのちに人類館事件と呼ばれる外交問題・人権問題へと発展した。これは、近代化を進める日本の「光」と、他者に対する優越意識や帝国主義的プロパガンダという「影」の側面を象徴する出来事であった。