保安条例 (ほあんじょうれい)
【概説】
1887年(明治20年)に明治政府が公布・施行した、反政府運動を弾圧するための治安立法。高揚する三大事件建白運動や大同団結運動を抑え込むため、尾崎行雄や中江兆民ら多数の民権家を皇居外三里の地へ追放した。
激化する反政府運動と三大事件建白運動
1880年代後半の日本は、大日本帝国憲法の制定と帝国議会の開設を目前に控え、政治的緊張が高まっていた。当時、第1次伊藤博文内閣の外務大臣であった井上馨は、不平等条約改正の条件として外国人裁判官の任用などを認める妥協的な交渉を進めていた(鹿鳴館外交)。しかし、この条約改正案の妥協的姿勢が暴露されると、1886年のノルマントン号事件による国民的憤激も相まって、国内で猛烈な非難が巻き起こった。
これを契機に、一時停滞していた自由民権運動が再び活気を帯びることとなる。後藤象二郎らの提唱により旧自由党や旧立憲改進党の勢力は「大同団結運動」を展開して反政府の気勢を上げ、さらに「地租の軽減」「言論・集会の自由」「外交失策の挽回」を求める三大事件建白運動へと発展した。全国から多数の民権家が東京に集結し、元老院などに建白書を提出するなど、政府に対する圧力を強めていた。
保安条例の公布と過酷な弾圧
民権派の急激な高揚に危機感を抱いた政府は、内務大臣・山県有朋の主導のもと、1887年(明治20年)12月25日に保安条例を公布し、即日施行するという強硬措置に出た。この条例は、内務大臣の権限によって秘密結社や集会を解散させる権限を警察に与えるとともに、治安を妨害する恐れがあると見なされた人物に対して、皇居から3里(約12km)以内の地域からの退去を命じ、3年間にわたり同地域への出入りや居住を禁じるという極めて強権的な内容であった。
条例施行からわずか数日の間に、尾崎行雄、星亨、中江兆民、片岡健吉ら著名な活動家を含む約570名もの民権家が一斉に東京から追放された。退去を拒否した者は即座に逮捕・投獄されるなど、その弾圧は徹底的であり、自由民権運動は再び大きな物理的・心理的打撃を受けることとなった。
歴史的意義とその後の影響
保安条例は、明治政府が近代国家の骨格となる憲法制定と議会開設を目前にして、反対勢力を首都から強制的に排除し、政府主導の体制構築を強行するための「劇薬」であったと言える。政府は激しい弾圧を行う一方で、翌1888年に伊藤博文から黒田清隆へと首相を交代させ、民権派に人気のあった大隈重信を外務大臣として入閣させるなど、硬軟両用の分断工作を図った。
この結果、民権派の運動は次第に勢いを失い、政府は深刻な政治的混乱を回避したまま、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布、および1890年の第1回帝国議会開設へと至るのである。保安条例自体は、議会政治が定着しつつあった1898年(明治31年)に廃止されたが、国家権力による言論・思想弾圧の象徴的な悪法として日本近代史にその名を残している。