讒謗律

1875年、新聞紙条例とともに公布され、政府の役人などを文書で誹謗中傷することを厳しく取り締まった法令は何か?
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★★★

【参考リンク】
讒謗律(Wikipedia)

「讒」の書き方

讒謗律 (ざんぼうりつ)

1875年

【概説】
1875年(明治8年)に明治政府によって制定・布告された言論統制のための法令。事実の有無にかかわらず、文書や図画を用いて国家や政府の役人を批判・中傷することを厳しく禁じた。同年に公布された新聞紙条例とともに、高まりつつあった自由民権運動や反政府的言論を弾圧する法的根拠として機能した。

自由民権運動の高揚と大阪会議

1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機として、日本国内では言論による反政府運動である自由民権運動が急速に高まりを見せた。各地で政社が結成され、新聞や雑誌を通じて薩長藩閥政府に対する激しい批判が展開されるようになった。こうした事態に危機感を抱いた大久保利通は、1875年(明治8年)初頭に大阪会議を開き、下野していた木戸孝允や板垣退助らを政府に復帰させることで政治的妥協を図った。

この会議の結果、同年4月に漸次立憲政体樹立の詔が発布され、元老院や大審院の設置など立憲体制への移行が約束された。しかし、政府は民権派の急進的な要求を放置するつもりはなく、体制整備と並行して反政府的言論を封じ込めるための強力な治安立法を準備した。それが1875年6月28日に布告された讒謗律である。政府は「立憲政体への漸進」というアメを与える一方で、「言論弾圧」というムチを用意したのである。

讒謗律の内容と「名誉毀損」の論理

讒謗律の「讒謗」とは、事実の真偽に関わらず、他人の悪事や過失を暴き立てて名誉を毀損することを指す。全8条からなるこの法令は、文書、図画、印刷物を用いて国家や天皇、皇族、そして政府の官吏を中傷する行為を厳重に処罰するものであった。

特筆すべきは、「事実の有無に関わらず」罪に問われるという点である。たとえ政府高官の汚職や失政が真実であったとしても、それを公に批判すれば処罰の対象となった。政府はこれを「個人の名誉を保護するための近代的な法律」として正当化したが、実態は官吏を保護し、政権に対する批判的言論を封殺するための露骨な権力行使であった。なお、この法令の起草にはフランス人お雇い外国人のボアソナードや井上毅が関与しており、西洋の法理論を巧妙に利用して言論統制を図った点がうかがえる。

新聞紙条例との併用による言論弾圧

讒謗律は、同日に太政官布告された新聞紙条例と表裏一体のものとして運用された。新聞紙条例が新聞や雑誌の出版そのものを規制し、発行人の責任や罰則を定めたのに対し、讒謗律は記事の内容(表現)を直接的に取り締まる役割を担った。

この二つの法令の施行により、当時のジャーナリズムは深刻な打撃を受けた。政府の政策を痛烈に風刺・批判していた『朝野新聞』の末広鉄腸や成島柳北、『郵便報知新聞』の栗本鋤雲など、著名なジャーナリストや民権家が次々と筆禍事件を起こして投獄された。これにより、初期の自由民権運動を支えた活発な言論空間は急速に萎縮を余儀なくされた。

その後の展開と歴史的意義

讒謗律による過酷な言論弾圧は、民権派の運動方針に変化をもたらす要因ともなった。言論による合法的な批判が著しく制限されたことで、政府への不満の捌け口が失われ、運動の一部が次第に急進派へと傾倒し、後の激化事件へと繋がっていく遠因にもなった。

さらに政府は、この法令を足がかりとして、1880年(明治13年)の集会条例や1887年(明治20年)の保安条例など、集会や結社の自由を剥奪するさらなる弾圧法規を連発していくことになる。讒謗律自体は、1880年に制定された刑法(旧刑法)に名誉毀損罪や不敬罪として吸収される形で廃止されたが、近代日本における国家権力による言論統制の原点として、歴史的に極めて重要な意味を持つ法令である。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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