新聞紙条例
【概説】
1875年(明治8年)に明治政府が制定した、新聞や雑誌に対する言論統制のための法令。自由民権運動の進展に伴い活発化した政府批判や国会開設要求を封じ込めるため、発行停止措置や記者への厳罰をもって言論活動を激しく弾圧した。
自由民権運動の高まりと政論新聞の台頭
1874年(明治7年)に板垣退助らが提出した民撰議院設立建白書を契機として、自由民権運動が全国的な広がりを見せ始めた。この時期、運動の担い手たちは言論を通じて世論を喚起するため、多数の新聞や雑誌を創刊した。これらは「政論新聞(大新聞)」と呼ばれ、『郵便報知新聞』や『東京曙新聞』、『朝野新聞』などが代表的である。これらの紙面では、薩長藩閥政府の専制政治に対する鋭い批判や国会開設を求める論陣が張られ、民権運動を推進する強力な武器となっていった。
「讒謗律」とともに制定された言論統制
政論新聞による激しい政府批判に危機感を抱いた明治政府(大久保利通・木戸孝允ら)は、1875年(明治8年)6月、大阪会議の直後に言論統制を目的とした二つの法令を布告した。それが新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ)である。
新聞紙条例は、新聞や雑誌の発行を内務省の許可制とし、発行人や編集人だけでなく、記事や投書を執筆した者の実名と住所の明記を義務付けた。また、国家の体制を破壊するような言論や、法律を誹謗する言論、犯罪を煽動するような記事を厳しく禁じた。違反した場合には罰金や禁錮刑に処すとともに、内務卿の権限によって発行停止や禁止を命じることができるという強権的な内容であった。
苛烈な取り締まりとジャーナリストの抵抗
この条例の制定により、政府への批判記事は「官吏侮辱」や「国家転覆を企図する」ものとみなされ、多数のジャーナリストや民権家が次々と投獄された。代表的な事例として、『朝野新聞』の成島柳北や末広鉄腸などが筆禍事件に問われ、処罰を受けている。
しかし、当時の言論人たちは政府の弾圧に屈することはなく、罰金を払ったり投獄されたりすることを「名誉」とする風潮すら生まれた。弾圧を逆手にとって獄中から記事を寄稿するなど、激しい抵抗を続けた者も多く、発行停止処分を受けると直ちに別の題字(名称)で新聞を再発行し、法の網の目を潜り抜けて言論活動を継続するような事態も頻発した。
政府による弾圧の強化とその後
ジャーナリストたちの抵抗に対し、政府は1883年(明治16年)に新聞紙条例を全面改正し、弾圧をさらに強化した。改正条例では、新たに高額な発行保証金制度が設けられ、資金力のない民権派の新聞を経済的に追い詰める措置が取られた。また、内務卿の権限がさらに拡大され、司法手続きを経ることなく新聞の発行を事前停止・禁止できるようになった。
この結果、多くの政論新聞が廃刊や休刊に追い込まれ、自由民権運動は大きな打撃を受けることとなった。新聞紙条例は、大日本帝国憲法発布後も言論統制の基本法として維持され、1909年(明治42年)に新聞紙法が制定されるまで存続し、近代日本の言論の自由を長期にわたって縛り続けたのである。