地方三新法
【概説】
1878年に明治政府が制定した、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則の3つの法律の総称。それまでの画一的な大区小区制を廃止して伝統的な町村を復活させ、制限選挙による府県会を設置した。中央集権体制の構築と地方民心の安定、さらには自由民権運動の懐柔を目的とした地方統治の基本法である。
大区小区制の破綻と地方三新法の制定背景
明治新政府は、1871(明治4)年の廃藩置県によって中央集権化を一気に推し進めた。その過程で、地方を画一的な行政区画で分断する大区小区制を導入したが、これは江戸時代以来の自然発生的な「町村」という共同体を無視した制度であった。そのため、地租改正の実施や戸籍編纂などの実務において民衆の激しい混乱と抵抗を招き、地方行政は機能不全に陥った。
さらに同時代には、西南戦争に代表される士族反乱が終結し、運動の矛先は言論による自由民権運動へと移行していた。地租の軽減や国会開設を求める世論が全国的に高まるなか、内務卿・大久保利通の暗殺(紀尾井坂の変)が起こる。大久保の後を継いで内務省の実権を握った伊藤博文らは、動揺する地方秩序を再建し、かつ民権運動の過激化を防ぐための懐柔策として、実情に即した新たな地方制度の構築を急いだ。これが地方三新法制定の背景である。
地方三新法の「三柱」とその具体的仕組み
地方三新法は、有機的に連動する以下の3つの法律によって構成されていた。
第一に、郡区町村編制法である。これにより機能しなくなっていた大区小区制が廃止され、伝統的な共同体である「郡」や「町村」が行政単位として再建された(三都などの主要都市には「区」を設置)。郡には官選の郡長が、町村には実質的な実務を担う戸長が置かれ、近代的な地方行政を末端まで浸透させるパイプ役となった。
第二に、府県会規則である。これは日本で初めて公選制を導入した地方議会(府県会)の設置を規定したものである。ただし、選挙権は地租3円以上、被選挙権は地租10円以上を納める満20歳(被選挙権は25歳)以上の男子に限られるという厳しい制限選挙であった。政府は地方の富裕な地主や豪農(名望家)に地方政治の参政権を与えることで、彼らを体制側に取り込み、民権運動への傾倒を防ごうとした。
第三に、地方税規則である。それまで曖昧で重かった地方税の課税基準を整理し、国税とは切り離された「府県税」と「町村費」を明確化した。さらに、府県税の予算や決算には府県会の議決を必要と定め、議会に一定の財政関与権(審議権)を認めた。
民権運動との相克と歴史的意義
地方三新法は、地方の名望家を地方行政に取り込むことで、民権運動を穏健化させる「ガス抜き」を企図したものであった。しかし、実際の歴史の展開は政府の思惑通りには進まなかった。
開設された府県会は、地方税の使途や政府の専制的な姿勢を激しく追及する「合法的な言論の府」へと変貌したのである。府県会は民権派にとって運動の宣伝や、各地の活動家が結びつくための絶好の拠点となった。ここでの政治経験が、のちの国会開設運動や初期の政党政治を支える人材(高知県の植木枝盛や、各地の民権派議員など)を育むこととなった。
地方三新法は、日本の近代地方自治制度の端緒となっただけでなく、官僚主導の中央集権体制と、国会開設を求める下からの民権運動が激突・妥協するなかで機能した、明治初期の最重要制度の一つであった。