お伊勢参り
【概説】
江戸時代、五街道などの交通網の整備とともに庶民の間で大流行した、伊勢神宮への参拝旅行。本来の神仏への信仰目的に加え、道中での名所見物やご当地の食を楽しむといった観光旅行(物見遊山)の要素を強く併せ持っていた一大民衆文化である。
信仰と娯楽の融合――江戸時代の「観光」の誕生
中世までの伊勢神宮への参拝は、天皇や上級武士など一部の特権階級に限られたものであった。しかし、江戸時代に入って長期の泰平の世が訪れると、五街道をはじめとする交通網や宿場町が整備され、治安が劇的に向上した。これにより、庶民の間にも「一生に一度は伊勢へ」という熱烈な願望が広まった。
ただし、当時の庶民にとってお伊勢参りは、単なる厳格な宗教行事ではなかった。幕府は原則として農民の勝手な移動を禁じていたが、信仰を目的とする旅であれば特例として通行手形が発行されやすかったのである。そのため、伊勢神宮への参拝を名目としつつ、道中で京都や大坂、奈良といった名所旧跡を巡り、芝居小屋での観劇や名物グルメを楽しむなど、実態としては娯楽性の高い物見遊山(観光旅行)であった。
「伊勢講」の結成と「御師(おんし)」の活躍
当時の庶民にとって、江戸から伊勢までの往復には約1ヶ月を要し、その旅費は莫大なものであった。そこで村や町ごとに「伊勢講(いせこう)」という相互扶助の組織が結成された。講の構成員が少額の金銭を毎月積み立て、くじ引きなどで選ばれた代表者が皆の代わりに参拝する「代参」の仕組みが整えられたのである。
この大流行を強力に後押ししたのが、伊勢神宮の下級神職である御師(おんし)の存在である。彼らは全国各地の農村や町を定期的に巡回して「伊勢暦」や御札(お祓い大麻)を配り、巧みな話術で参拝を勧誘した。参拝者が伊勢に到着すると、自らが経営する豪壮な宿坊に迎え入れ、伊勢音頭や神楽、豪華な山海の珍味で手厚くもてなした。御師はいわば、現代の「旅行代理店」兼「ツアーコンダクター」としての役割を担っていた。
数十年に一度の熱狂――「おかげ参り」の発生
平時の継続的な参拝に加え、およそ60年周期で爆発的な参拝ブームが発生した。これを「おかげ参り」と呼ぶ。特に1705年(宝永)、1771年(明和)、1830年(文政)の三回が有名であり、文政のブームの際には、数ヶ月の間に日本の総人口の約6分の1にあたる500万人近くが伊勢に殺到したと推定されている。
この異常な熱狂の中では、親や主人の許可を得ずに着の身着のままで旅立つ「抜け参り」が社会的に容認された。さらに、沿道の富裕層や村々が、彼らに食事や草鞋、路銀を無償で提供する「施行(せぎょう)」という風習も定着していた。おかげ参りは、身分制社会における抑圧からの一時的な解放であり、一種の社会的ガス抜きの機能を持っていたと評価されている。
旅行文化の成熟と歴史的意義
お伊勢参りの大流行は、江戸時代の日本社会に多大な影響を与えた。数百万もの人々が全国を移動したことで、貨幣経済の浸透や交通・宿泊業の発展が飛躍的に促進された。また、全国から集まった人々が各地の最新の文化や技術、流行を故郷へと持ち帰ることで、江戸時代における一大情報ネットワークが形成された。
さらに、こうした旅行ブームを背景として、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』などの道中記や、歌川広重の名所絵(浮世絵)、各地の情報を網羅した名所図会がベストセラーとなった。お伊勢参りは、化政文化をはじめとする江戸時代の豊かな民衆文化の土壌を育み、日本における「旅」の概念を確立した画期的な歴史的現象であったと言える。