天保の薪水給与令 (てんぽうのしんすいきゅうよれい)
【概説】
1842年(天保13年)、アヘン戦争における清の敗北に衝撃を受けた江戸幕府が、従来の異国船打払令を撤回して発布した法令。日本の沿岸に接近・漂着した外国船に対し、薪水(燃料と飲料水)や食料の給与を認めて穏便に退去させることを命じた。
異国船打払令からの政策転換
江戸幕府は19世紀初頭以降、ロシアやイギリスなどの異国船が日本近海に頻繁に出没するようになったことを受け、海防への警戒を強めていた。1825年(文政8年)には、日本沿岸に接近する外国船を理由の如何を問わず砲撃して追い返す異国船打払令(無二念打払令)を発布し、強硬な排外政策をとった。
しかし、この強硬策は次第に矛盾を生じさせるようになる。1837年(天保8年)に起きたモリソン号事件では、日本人漂流民の送還と通商を求めて来航したアメリカの商船モリソン号を、幕府が打払令に基づき砲撃した。この事件が後に国内に伝わると、渡辺崋山や高野長英ら蘭学者は幕府の政策を厳しく批判し、弾圧される事件(蛮社の獄)へと発展した。このように、過度な排外政策は国内外で摩擦を生む火種となりつつあった。
アヘン戦争の衝撃と幕府の危機感
幕府の対外政策を根本から転換させる決定的な契機となったのが、1840年に勃発したアヘン戦争である。オランダ風説書などを通じて、東アジアの伝統的覇権国であった清が、最新の軍事力を誇るイギリスの前に惨敗したという情報がもたらされると、幕府首脳陣は深刻な衝撃を受けた。
当時の老中首座・水野忠邦(天保の改革を主導)は、日本が異国船打払令を維持し続ければ、清と同様に西洋列強との武力衝突を招き、圧倒的な軍事力の前に敗北を喫する危険性が高いと判断した。国家の存立を危惧した幕府は、無用な軍事摩擦を避けるための現実的な対応策を迫られることとなった。
法令の内容と「撫恤」への回帰
1842年(天保13年)、幕府は異国船打払令を撤回し、新たに天保の薪水給与令を発布した。この法令では、漂着したり燃料や食料の欠乏を訴えて沿岸に接近したりした外国船に対し、人道的な見地から水、薪、食料などを与え(撫恤:ぶじゅつ)、速やかに退去させることを命じた。
ただし、この法令は開国や通商への転換を意味するものではない。あくまで武力衝突の口実を与えないための緊急避難的な措置であり、外国船の乗組員に対する上陸や交易は引き続き厳禁とされた。実質的には、1806年(文化3年)に発布されていた文化の薪水給与令の基本方針へ回帰し、「鎖国」体制を安全に延命させるための妥協策であった。
開国への布石としての歴史的意義
天保の薪水給与令は、幕府の対外政策が強硬論から現実的な柔軟路線へと後退したことを明確に示す出来事である。この政策転換により、欧米列強の船舶は日本近海で不意に砲撃される危険性が減り、捕鯨船の寄港や外交使節の接近が容易になった。
結果として、1844年のオランダ国王ウィレム2世による開国勧告や、1846年のアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの浦賀来航など、西洋諸国からの外交的接触が激化していく。天保の薪水給与令は、幕末の動乱と1853年のペリー来航による開国へと至る歴史の大きな転換点として、極めて重要な意味を持っている。