大逆罪 (たいぎゃくざい)
【概説】
天皇や皇后、皇太子などの皇族に対して危害を加え、または加えようとする罪。近代日本の刑法において、国家の根幹を揺るがす最大の罪として、未遂や予備も含め一律に死刑のみが科される極刑として規定された。
近代天皇制の確立と大逆罪の創設
明治維新以降、新政府は天皇を中心とする近代国家の建設を急いだ。その過程で、国家の最高権威である天皇および皇族の安全を絶対化する法制度の整備が必要とされた。1880年(明治13年)に制定された旧刑法において「皇室に対する罪」として創設され、1907年(明治40年)に制定された現行の刑法第73条(大逆罪)へと引き継がれた。
大逆罪の最大の特徴は、実際に危害を加えた(既遂)場合だけでなく、その未遂や予備、さらには合意(陰謀)した段階であっても、すべて例外なく死刑のみが規定されていた点にある。これは、天皇を神聖不可侵とする大日本帝国憲法体制(国体)を法的に守護するための絶対的な防壁として機能した。
大津事件における適用問題と司法の独立
大逆罪が歴史上、重大な政治問題として浮上した最初の契機が、1891年(明治24年)に発生した大津事件である。来日中だったロシア東宮(のちのニコライ2世)が、警備の警察官・津田三蔵に切りつけられて負傷した。大国ロシアの報復や軍事的介入を恐れた松方正義内閣は、津田に大逆罪を類推適用して死刑に処すよう、司法省を通じて裁判所に強力な圧力をかけた。
しかし、大審院長であった児島惟謙は、罪刑法定主義の立場から「外国の皇太子は刑法が規定する『皇族』には含まれない」として政府の干渉を峻拒した。結果として、一般の殺人未遂罪(謀殺未遂罪)が適用されて津田は無期徒刑(無期懲役)となり、近代日本における司法の独立が守られた象徴的な事件となった。
社会運動への弾圧と大逆罪の終焉
明治後期以降、大逆罪は本来の皇族保護という目的を超え、国家体制に反逆する思想や社会運動を根絶やしにするための政治的な道具として利用された。その代表例が、1910年(明治43年)に明治天皇暗殺を計画したとして、幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者が一斉に検挙・処刑された幸徳事件(大逆事件)である。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法の制定にともない、法の下の平等や主権在民の原則に反することから、刑法改正によって大逆罪は不敬罪とともに廃止された。