児島惟謙 (こじまこれかた)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した司法官、裁判官。大審院長として臨んだ大津事件の裁判において、政府からの政治的圧力を退けて司法権の独立を守り抜き、「法の番人」と称された人物である。
大津事件の発生と政府からの圧力
1891(明治24)年、来日中であったロシア帝国の皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられて負傷する「大津事件」が発生した。当時の日本は、北方の大国ロシアとの軍事的衝突や報復を極度に恐れ、国家存亡の危機として激しく揺れ動いた。
松方正義内閣は、ロシアを懐柔するために犯人を早期に死刑に処すべきだと判断し、皇室に対する罪である「大逆罪(刑法116条)」の適用を司法部に強く求めた。しかし、当時の大逆罪は「日本の皇室」に対する犯罪のみを対象としており、外国の皇族に対する危害は一般の「殺人未遂罪(刑法292条)」を適用するのが法理上の原則であった。一般の殺人未遂罪を適用すれば、当時の法では死刑に処すことは不可能であったため、政府は司法に対して超法規的措置ともいえる不当な政治干渉を行った。
司法権の独立の死守とその歴史的意義
大審院(現在の最高裁判所に相当)の長であった児島惟謙は、「法治国家として法を曲げてはならない」という信念のもと、政府からの激しい干渉を断固として拒絶した。児島自身には裁判の判決を下す直接の権限はなかったが、担当判事たちを一人ずつ説得・激励し、「ここで政府の圧力に屈すれば、日本の司法の独立は失われる」と訴えてその意思を支えた。
結果として大審院は、政府の要求を退けて津田三蔵に一般の殺人未遂罪を適用し、無期徒刑(無期懲役)の判決を言い渡した。この決断は、大日本帝国憲法が規定する三権分立、とりわけ司法権の独立を守り抜いた象徴的な事件として、日本憲政史上に深く刻まれることとなった。
さらにこの判決は、日本が「法の支配」が確立された近代国家であることを国際社会に示す絶好の機会となった。当時、明治政府の最大課題であった領事裁判権の撤廃などの条約改正交渉において、日本の司法制度の信頼性を諸外国に証明する格好の材料となり、近代化の進展を後押しする歴史的意義をもたらしたのである。