阿部正弘

ペリー来航の際、朝廷に報告するとともに諸大名や幕臣にも意見を求め、従来の幕府専制の方針を転換した老中首座は誰か?
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★★★

阿部正弘

1819〜1857

【概説】
備後福山藩主であり、幕末という激動の時代に老中首座を務めた譜代大名。ペリー来航という未曾有の国難に対し、朝廷や諸大名に広く意見を求めて従来の幕府専断体制を転換し、国防強化や人材登用を主軸とする安政の改革を主導した。

若き老中首座の誕生とペリー来航

阿部正弘は備後福山藩の第7代藩主であり、水野忠邦が主導した天保の改革が挫折した後の1845(弘化2)年、20代半ばの若さで老中首座に抜擢された。当時の日本近海には異国船が頻繁に出没し始めており、対外的な緊張が急速に高まりつつある時期であった。

彼の最大の試練となったのが、1853(嘉永6)年のペリー来航である。アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に現れ、強大な軍事力を背景に開国を要求した。幕府の最高責任者であった阿部は、国の存亡に関わる重大な決断を迫られることとなった。

幕府専断体制の崩壊と挙国一致の模索

ペリー来航に際し、阿部正弘は従来の幕閣のみによる独裁的な政策決定(幕府専行)を放棄するという、日本政治史において極めて重要な転換を行った。事態の重大さを鑑み、朝廷に事の次第を報告するとともに、親藩・外様大名、さらには旗本や庶民に至るまで広く意見(海防上書)を求めたのである。

この前代未聞の諮問は、幕府が自らの独力で事態を収拾できないことを露呈した形となり、結果的に幕府の権威低下を招いたと批判されることも多い。しかし一方で、これは国難を乗り切るための「挙国一致体制」を構築しようとする現実的かつ苦肉の策であったとも評価されている。この措置により、水戸藩の徳川斉昭や薩摩藩の島津斉彬といった有力な雄藩大名が国政に深く関与していく端緒が開かれ、後の幕末政治の枠組みが形成される要因となった。

安政の改革と有能な人材の抜擢

阿部は迫り来る西欧列強の脅威に対抗するため、大規模な幕政改革である安政の改革に着手した。国防強化を最優先とし、江戸湾防備のための品川台場(お台場)の築造や、諸大名に対する大船建造の禁の解除など、実務的な海防策を次々と実行に移した。

さらに、西洋の先進的な軍事・科学技術を導入するため、長崎海軍伝習所、洋式武芸の訓練機関である講武所、そして洋学の研究・教育機関である洋学所(後の蕃書調所、現在の東京大学の源流の一つ)を立て続けに創設した。これらの政策を推進するため、阿部は門閥や身分にとらわれない大胆な人材登用を行った。川路聖謨、岩瀬忠震、大久保一翁、勝海舟といった開明的な幕臣たちを重用し、アメリカから帰国したジョン万次郎をも直参として取り立てたことは、彼の柔軟な思考と先見性を示している。

開国への決断と歴史的意義

翌1854(嘉永7)年、ペリーが再び来航すると、阿部は戦争を回避するという現実的な判断から開国を決断し、日米和親条約を締結した。これにより、200年以上続いた日本の「鎖国」体制は終焉を迎えた。

その後、開国に伴う国内の混乱や、13代将軍徳川家定の継嗣問題(南紀派と一橋派の対立)などをめぐり、幕閣内や諸大名間の意見の相違が激化していく。阿部は開国派の堀田正睦を老中首座に迎えて自らは次席に退き、国内の意見調整や体制整備に奔走したが、度重なる心労と激務が重なり、1857(安政4)年に39歳の若さで急死した。

阿部正弘の死後、実権を握った大老・井伊直弼は独裁的な強権路線(安政の大獄)へと回帰していくことになり、幕末の政治状況は凄惨なテロリズムや内乱へと急転直下していく。阿部が模索した協調路線と漸進的な近代化策は、幕末という激動の時代において独自の光を放っており、彼が見出して登用した人材の多くは、その後の幕府崩壊から明治維新にかけて近代国家建設の屋台骨を担うこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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