富永仲基 (とみながなかもと)
【概説】
江戸時代中期における大坂出身の独創的な町人学者。大坂の町人たちが設立した学問所「懐徳堂」に学び、独自の歴史的・文献批判的な方法論を確立した思想家。仏教の経典が歴史的に成立した過程を客観的に分析し、大乗仏教の経典は釈迦が直接説いたものではないとする「大乗非仏説」を唱えたことで知られる。
合理的精神を育んだ大坂の学風と「懐徳堂」
富永仲基は、享保期の大坂の有力な商家(醤油醸造業「五菜屋」)に生まれた。当時の大坂は「天下の台所」として経済的に繁栄しており、武士階級の権威から比較的自由な、合理主義的かつ実用的な文化が育まれていた。その学問的中心となったのが、大坂の有力商人たちが共同出資して設立し、幕府公認の学問所となった懐徳堂であった。
仲基は懐徳堂で朱子学をはじめとする諸学問を修めたが、そのあまりに自由で鋭い批判精神ゆえに、既存の学問的権威と対立し、やがて懐徳堂を去ることとなった。しかし、この大坂という都市が持つ合理的かつ実証的な雰囲気こそが、仲基の既成概念にとらわれない先駆的な批判哲学を育む土壌となったのである。
「加上の説」と大乗非仏説の提唱
仲基の最大の業績は、仏教経典の成立過程を論じた著書『出定後語』(しゅつじょうごご)における、歴史言語学・文献批判的なアプローチである。彼は、思想や学説は後から現れた者が先人の説の上に新たな主張を積み重ねることで自己の正当性を主張するという、歴史的な発展法則を説いた。これを「加上(かじょう)の説」と呼ぶ。
この「加上の説」に基づき、膨大な仏教経典を分析した仲基は、各種の経典が釈迦の死後、時代の要請や学派間の対立のなかで順次「加上」され、創作されていったものであることを突き止めた。ここから、大乗仏教の経典は釈迦が直接説いたものではないとする「大乗非仏説」(だいじょうひぶつせつ)を論理的に導き出した。これは、中世以来の伝統的な仏教観を根本から揺るがすきわめて先進的な学説であった。
『翁の文』に見る三教批判と近代的意義
仲基の批判対象は仏教にとどまらず、もう一つの著書『翁の文』(おきなのふみ)では、儒教・仏教・神道の「三教」すべてを相対化し、批判した。彼は、思想や宗教はそれが生まれた「国(風土)」「時(時代)」「人(国民性)」という三つの制約(これを「三物」と呼んだ)に縛られるものであると主張した。
例えば、儒教は「飾る(虚飾)」ことを特徴とする中国の風土から、仏教は「幻(神秘主義)」を好むインドの風土から、神道は「隠す(秘伝主義)」ことを好む日本の風土から生じたものであり、いずれも江戸時代後期の日本にそのまま適用できる普遍的な真理ではないとした。その上で、特定の宗教に固執せず、日々の生活における実直な道徳(「誠の道」)を実践すべきであると説いたのである。
このような仲基の歴史相対主義や文献批判の手法は、18世紀の東アジアにおいて群を抜いて近代的・実証的なものであった。当時は異端視され、その思想は広く受け入れられなかったが、明治時代以降、近代的な仏教学や歴史学が導入される中でその先駆性が再発見され、日本思想史上きわめて高い評価を受けることとなった。