岩崎弥太郎

土佐藩出身で、三菱を創設して海運業を独占し、巨万の富を築いた政商は誰か?
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★★★

岩崎弥太郎

1835年〜1885年

【概説】
土佐藩出身の幕末・明治初期の実業家。三菱商会を創設し、政府の台湾出兵や西南戦争における軍事輸送を独占して巨利を得た政商の代表的人物である。政府の厚い保護を受けながら日本の近代海運業を確立するとともに、多角的な事業展開を行い三菱財閥の基礎を築き上げた。

地下浪人から土佐藩の経済官僚へ

土佐藩(現在の高知県)の地下浪人の家に生まれ、幼少より学問に励んだ。藩の実力者であった吉田東洋に見出され、後に後藤象二郎の知遇を得て藩の役人として抜擢される。幕末期には長崎に置かれた藩の出先機関である土佐商会(開成館長崎商会)に赴任し、貿易業務や武器調達の責任者として活躍した。この時期、坂本龍馬が率いる海援隊の残務整理や会計業務も担当しており、西洋の商慣習や海運業務、さらに外国人商人との交渉術などの実務経験を積むこととなった。この長崎での経済官僚としての経験と人脈が、のちの実業家としての飛躍の最大の原点となる。

三菱商会の創設と政商への道

明治維新後、廃藩置県によって各藩が営んでいた事業は解体されることとなった。岩崎は土佐藩の残余財産と船舶を引き継ぐ形で「九十九商会」を設立し、本格的に海運業に乗り出した。その後、社名を三川商会、さらに1873年には三菱商会へと改称した。岩崎の最大の転機となったのは、1874年の台湾出兵である。当時、外国の海運会社が局外中立を理由に日本軍の軍事輸送を拒否したため、岩崎は大久保利通や大隈重信といった政府高官の要請に応え、政府から提供された船舶を用いて軍事輸送を独占的に引き受けた。続く1877年の西南戦争においても、政府軍の兵員や軍需品の輸送業務を独占して莫大な利益を上げ、明治政府との癒着によって急成長を遂げる「政商」としての地位を不動のものとした。

外国資本との競争と海運独占

当時の日本沿岸航路は、アメリカのパシフィック・メイル社(PM社)やイギリスのP&O社といった強大な外国資本の海運会社に牛耳られていた。岩崎は政府からの手厚い助成金と保護を後ろ盾として、これらの外国企業と激しい運賃競争(ダンピング競争)を繰り広げた。政府の強力な支援のもとで徹底的な値下げ攻勢をかけた結果、最終的にPM社から船舶や施設を買収し、P&O社をも日本航路から撤退させることに成功した。これにより、三菱は日本の海運業における圧倒的な独占体制を確立するとともに、欧米列強から日本の沿岸航路という「国益」を守る役割をも果たしたのである。

三菱財閥の基礎確立と晩年の死闘

海運業で蓄積した莫大な資本を元手に、岩崎は事業の多角化を推し進めた。政府から高島炭鉱や長崎造船所(後の三菱重工業の源流)などの官営模範工場の払い下げを受け、鉱山業や造船業、さらには金融・倉庫業へと進出し、後の三菱財閥の強固な基盤を築き上げた。しかし、1881年の明治14年の政変で最大の後ろ盾であった大隈重信が政府を去ると、状況は一変する。三菱の独占と大隈との結びつきを危険視した井上馨や品川弥二郎、渋沢栄一らは、政府の支援を受けて半官半民の共同運輸会社を設立(1882年)し、三菱に激しい競争を挑んだ。両社の熾烈な値下げ競争は日本経済全体を疲弊させるほどの死闘となったが、決着を見る前の1885年、岩崎は胃がんにより50歳で病没した。彼の死後、事業は弟の岩崎弥之助に引き継がれ、政府の仲介によって両社は合併し、新たに日本郵船会社が誕生することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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