遣米使節

1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府がアメリカの軍艦(ポーハタン号)に乗せてワシントンへ派遣した使節団を何というか?
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★★

遣米使節

1860年

【概説】
1860年(万延元年)に江戸幕府がアメリカ合衆国へ派遣した、日本最初の公式外交使節団。日米修好通商条約の批准書交換を主目的とし、正使の新見正興ら総勢77名で構成された。この使節の派遣は、鎖国体制から開国へと舵を切った日本が、本格的に国際社会へ第一歩を踏み出す契機となった。

派遣の背景と日米修好通商条約の批准

1858年(安政5年)、大老・井伊直弼のもとで勅許(天皇の許し)を得ないまま調印された日米修好通商条約には、その「批准書」をアメリカの首都ワシントンで交換することが規定されていた。当時の幕府は、将軍継嗣問題や安政の大獄といった国内の政治的混乱(安政の政局)の渦中にあったが、アメリカ側からの強い要望もあり、正式な使節団の派遣を決定した。

使節団の正使には外国奉行の新見正興(しんみまさおき)が、副使には村垣範正(むらがきのりまさ)が、そして監察(目付)には後に幕府の近代化を推進する小栗忠順(おぐりただまさ)が任命された。一行はアメリカ側が用意した軍艦ポーハタン号に乗船し、太平洋を渡ってアメリカ本土へと向かった。

咸臨丸の随行と勝海舟・福沢諭吉

この遣米使節の派遣に際し、幕府は自力の航海技術を試験・誇示する目的で、初の近代的な軍艦である咸臨丸(かんりんまる)を随行軍艦として派遣した。咸臨丸には、軍艦奉行並の木村芥舟(きむらかいしゅう)を指揮官とし、艦長格の勝海舟をはじめ、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)、木村の従者として同行した福沢諭吉らが乗船した。

咸臨丸は、激しい嵐に見舞われながらもアメリカ人技術者の協力を得て太平洋を横断し、見事にサンフランシスコへ到着した。この航海は、日本人が近代的な造船・航海術を実践で学ぶ重要な機会となり、その後の幕府海軍や明治の日本海軍の礎となった。

アメリカでの大歓迎と日本近代化への影響

ポーハタン号でアメリカに到着した正使一行は、パナマ地峡を鉄道で横断して大西洋側に出て、首都ワシントンに到達した。大統領ジェームズ・ブキャナンに拝謁して批准書を交換した使節団は、その後フィラデルフィアやニューヨークなどを巡り、各地で熱烈な歓迎(大パレードなど)を受けた。髷(まげ)を結い、袴を穿き、刀を差した日本人たちの姿は、アメリカ市民に大きな衝撃と関心を与えた。

一方、使節団のメンバー、とりわけ小栗忠順はアメリカの高度な工業力に目を見張り、ワシントン海軍工廠(造船所)などを精力的に視察した。小栗はこの経験をもとに、帰国後、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設を主導することとなる。また、福沢諭吉がこの旅で得た知見や持ち帰った書籍は、後に彼が著した『西洋事情』などの啓蒙書に結実し、日本の文明開化に多大な影響を及ぼした。

万延元年の遣米使節団 (講談社学術文庫 1699)

幕末の激動期に米国へ渡った使節団の足跡を、克明な記録と日記から紐解く歴史ドキュメントの金字塔。

海を渡った侍たち: 万延元年の遣米使節は何を見たか

文明の衝突に直面した侍たちの驚きと葛藤を通じ、当時の日米交流の深層を鮮やかに描き出した一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 1392年に建国され、対馬の宗氏などを介して日本と活発な交易を行った朝鮮半島の王朝は何か?
Q. 寛政の三博士の一人で、松平定信に朱子学の正学化(寛政異学の禁)を強く進言した儒学者は誰か?
Q. 1871年、不平等条約の改正に向けた交渉と、欧米の近代的な制度・文化の視察を目的として派遣された使節団は何か?