新見正興 (しんみまさおき)
【概説】
幕末の江戸幕府直臣(旗本)で、日本の近代外交の黎明期に活躍した外交官。1860年(万延元年)に日米修好通商条約の批准書を交換するため、幕府がアメリカへ派遣した「万延元年遣米使節」の正使(首席全権)を務めた人物である。
万延元年遣米使節の正使抜擢と背景
1858年(安政5年)、大老の井伊直弼のもとで日米修好通商条約が調印されたが、その批准書はワシントンにおいて交換されることが取り決められていた。これに基づき幕府は、アメリカへの使節団派遣を決定する。この歴史的な大役の正使(首席全権)に抜擢されたのが、当時、外国奉行兼神奈川奉行を務めていた若き官僚の新見正興(豊前守)であった。
副使の村垣範正(淡路守)、監察の小栗忠順(上野介)らを含む総勢77名からなる使節団は、1860年1月にアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船し、品川沖を出航した。なお、この使節団の護衛および日本の航海術訓練を兼ねて、木村芥舟や勝海舟、福沢諭吉らを乗せた幕府警護艦咸臨丸が同調して太平洋を渡ったことは有名である。
アメリカでの大歓迎と批准書交換の達成
サンフランシスコを経由してパナマ地峡を鉄道で横断した新見一行は、大西洋側から再び船に乗り、アメリカの首都ワシントンD.C.に到着した。新見らはアメリカ大統領ブキャナンに謁見して国書と批准書を提出し、無事に条約批准の任務を完了させた。これにより、日本とアメリカの正式な国交・通商関係が確定することとなった。
当時、産業革命を経て急速に近代化を進めていたアメリカ社会にとって、日本の「サムライ」使節団の来訪はセンセーショナルに受け止められた。ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークといった各地で熱狂的な大歓迎を受け、パレードには数十万人の群衆が集まったとされる。新見は正使として品格ある厳かな態度を貫き、文化の異なる異国において日本の尊厳を保ちながら、初の民間外交を見事に成し遂げた。
帰国後の多難な外交と激動の幕末
1860年11月に帰国した新見は、大事業を成功させた功績を認められて大目付に昇進し、その後も外国奉行などを歴任した。しかし、当時の日本国内では尊王攘夷運動が激化しており、幕府の開国政策に対する批判が高まっていた。新見は激動する政局の中で、イギリスやフランスといった西欧列強との度重なる困難な外交交渉に奔走することとなる。
1868年(明治元年)に戊辰戦争を経て江戸幕府が崩壊すると、新見は徳川家とともに静岡へ移住し、隠居生活を送った。明治の新時代における活躍を期待されながらも、幕末の心労が重なったためか、1869年(明治2年)に40代半ばの若さで病没した。新見正興が主導した遣米使使節団は、日本が国際社会へデビューを果たすための極めて重要な第一歩であった。