万延貨幣改鋳

金の流出を防ぐために幕府が金の含有量を減らした万延小判を発行し、結果的に激しい物価上昇(インフレ)を招いた政策を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
貨幣改鋳(Wikipedia)

万延貨幣改鋳 (まんえんかへいかいちゅう)

1860年

【概説】
1860年(万延元年)に江戸幕府が断行した、小判の金含有量を大幅に引き下げる貨幣改鋳。開国にともなって発生した大量の金(ゴールド)の海外流出を阻止するための緊急対策であった。金流出の抑止には成功したものの、国内の貨幣流通量が急増したことで激しいインフレを引き起こし、幕末の社会混乱をさらに深める結果となった。

開港と「金流出」の発生要因

1858年に日米修好通商条約が締結され、翌1859年に横浜などの開港場で貿易が開始されると、幕府は深刻な経済問題に直面した。それが金(小判)の大量流出である。この問題の背景には、日本国内と海外における金銀比価(交換比率)の著しい不一致があった。

当時、東アジアの国際市場における金銀比価が「金1:銀15」であったのに対し、鎖国下の日本国内では「金1:銀5」と、極端な金高・銀安(金に対して銀の価値が非常に高い状態)に設定されていた。外国商人はこの歪みに目をつけ、メキシコドル(洋銀)を日本の一分銀に両替した上で、その一分銀4枚を小判1両と交換した。この小判を海外へ持ち出して上海などで銀貨に両替するだけで、元手の約3倍の銀貨を手に入れることができたのである。これにより、日本の金貨はまたたく間に海外へと流出していった。

万延小判の発行と国際水準への統合

幕府は当初、外国貨幣と同等の価値を持つ「安政二朱銀」を発行して金銀比価の調整を試みたが、ハリスらの強い抗議によってわずか1日で通用停止に追い込まれた。そこで1860年(万延元年)、大老・井伊直弼のもとで断行されたのが万延貨幣改鋳である。

この改鋳では、新しく鋳造された万延小判の量目(重さ)を、それまで流通していた天保小判の約3分の1(金含有量としては約3割強)にまで極端に引き下げた。これにより、日本の金銀比価を国際水準である「1:15」へと急速に接近させ、小判を持ち出す利ざやを失わせることで、金の海外流出を食い止めることに成功したのである。

激しいインフレの到来と幕末社会への打撃

金流出という外交上の危機は回避されたものの、この極端な改鋳は国内経済に壊滅的な打撃を与えた。幕府は、従来の天保小判1両を万延小判約3両分として通用させる「増歩(ましぶ)通用」を認めたため、国内に流通する貨幣の総額(名目貨幣量)が急増した。

さらに、貨幣価値そのものの急落と、開港にともなう物資(生糸や茶など)の品不足が重なり、国内では激しいインフレ(物価高騰)が発生した。米をはじめとする生活必需品の価格は数倍に跳ね上がり、都市の民衆や、定額の俸禄(知行)で生活していた武士階級の生活は窮乏を極めた。この経済的混乱は、幕府への不満を爆発させる契機となり、各地での世直し一揆や打ちこわしの頻発、さらには「尊王攘夷運動」の過激化を経済面から決定づけることとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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