島津久光

薩摩藩主の父として実権を握り、兵を率いて上京して幕府に文久の改革を要求した人物は誰か?
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★★★

島津久光

1817年〜1887年

【概説】
幕末期に薩摩藩の実質的な最高権力者(国父)として君臨した人物。兄である島津斉彬の遺志を継いで公武合体運動を推し進め、率兵上京や文久の改革を主導して幕政に大きな影響を与えた。しかし、明治維新後は新政府の急進的な近代化政策に反発し、生涯を通じて保守的な姿勢を貫いた。

薩摩藩「国父」としての台頭

島津久光は、薩摩藩第10代藩主・島津斉興の五男として生まれた。名君として知られる第11代藩主・島津斉彬は異母兄にあたる。久光自身は藩主の座に就くことはなかったが、1858年(安政5年)に斉彬が急死すると、久光の実子である島津忠義が第12代藩主に就任した。これに伴い、久光は若年の藩主に代わって実権を握り、藩主の父たる「国父」と称されて薩摩藩の最高権力者となった。

当初、久光は保守派とみなされていたが、実権を握ると大久保利通ら中下級武士のグループ(精忠組)を重用し、兄・斉彬の路線を引き継いで中央政局への進出を図った。当時の日本は日米修好通商条約の締結や将軍継嗣問題、さらには安政の大獄によって国論が二分されており、久光は朝廷と幕府の融和を図る公武合体を藩是として掲げた。

率兵上京と寺田屋事件

1862年(文久2年)、久光は公武合体の実現と幕政改革を促すため、藩兵約1000人を率いて上京した(率兵上京)。一介の無位無冠の人物が大軍を伴って上京することは異例中の異例であったが、朝廷の権威を背景にして幕府に圧力をかける狙いがあった。

しかし、久光の上京を知った諸藩の尊王攘夷派(過激派)は、これを「討幕の挙兵」と勘違いし、京都の寺田屋に集結して蜂起を企てた。自藩の暴発が公武合体路線の致命的な障害になると判断した久光は、大久保らの進言を受け入れ、鎮撫使を派遣して有馬新七ら薩摩藩内の過激派を粛清した(寺田屋事件)。この断固たる処置により、久光は「朝廷の意を汲んで過激派を取り締まる頼もしい存在」として、朝廷からの厚い信頼を獲得することに成功した。

文久の改革と生麦事件

朝廷の信任を得た久光は、幕政改革を求める勅使・大原重徳の護衛を命じられ、そのまま江戸へ下って幕府に対して強硬に改革を迫った。これにより、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永(春嶽)を政事総裁職に、松平容保を京都守護職に任命させるなどの大幅な人事改新を実現させた。これが文久の改革である。外様大名の有力者が幕政に直接介入し、制度改革を成し遂げたことは、幕府の権威低下を決定づける象徴的な出来事であった。

ところが、その江戸からの帰路、武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市)で、久光の行列を横切ろうとしたイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦事件が発生する。この事件の賠償交渉がこじれた結果、翌1863年にイギリス艦隊が鹿児島を砲撃する薩英戦争が勃発した。薩摩藩はこの戦争を通じて攘夷の無謀さを悟り、逆にイギリスに接近して軍事力の近代化を推し進めるという大きな転換点を迎えることになった。

参預会議の挫折と討幕への傾斜

1863年(文久3年)、久光は会津藩と結んで八月十八日の政変を起こし、長州藩をはじめとする急進的な尊王攘夷派を京都から追放した。その後、久光、一橋慶喜、松平慶永、山内豊信(容堂)、伊達宗城ら有力大名による合議体制である参預会議が成立した。久光は有力諸侯の会議による国政の運営を目指したが、横浜鎖港問題などを巡って慶喜と激しく対立し、参預会議はわずか数ヶ月で崩壊した。

この挫折以降、久光は中央政局から次第に距離を置くようになり、薩摩藩の主導権は西郷隆盛や大久保利通ら実務官僚層へと移っていった。彼らはもはや幕府中心の体制に見切りをつけ、長州藩と薩長同盟(1866年)を結んで武力討幕へと傾斜していく。しかし、久光自身はあくまで大名同士の合議による公武合体を理想としており、幕府を完全に武力で倒すことには最後まで慎重な姿勢を見せていた。

維新後の反発と晩年

明治維新が成立し、新政府が発足すると、久光の保守的な思想は新しい時代の流れと決定的に衝突した。版籍奉還や廃藩置県といった急進的な中央集権化政策、さらには断髪令や廃刀令などの西洋化(欧化政策)に対し、久光は激しい怒りを露わにした。

新政府は不満を抱える薩摩閥の威撫のため、久光を左大臣などに任命して優遇したが、政府方針との決定的な溝は埋まらなかった。久光は生涯にわたって丁髷(ちょんまげ)を落とさず、和装に帯刀という旧武士の姿を貫いた。かつて西郷や大久保を引き立て、結果的に倒幕への道筋をつけるきっかけを作った久光であったが、自らが思い描いた「諸侯による連合政権」とは全く異なる近代国民国家の誕生を受け入れることはできず、失意のうちに鹿児島へ帰郷し、1887年(明治20年)に70歳でその生涯を閉じた。

島津久光と明治維新: 久光はなぜ、討幕を決意したか

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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