坂下門外の変 (さかしたもんがいのへん)
【概説】
幕末の1862(文久2)年、公武合体政策である和宮降嫁に反対する尊王攘夷派の浪士らが、江戸城坂下門外において老中・安藤信正を襲撃した暗殺未遂事件。桜田門外の変に続くこの襲撃により幕府の権威失墜は決定的となり、公武合体の主導権が幕府から雄藩や朝廷へと移行する契機となった。
事件の背景:公武合体と「和宮降嫁」への反発
1860年の桜田門外の変によって大老・井伊直弼が暗殺された後、幕政の主導権を握った老中・安藤信正(対馬藩主)と久世広周(関宿藩主)の「久世・安藤政権」は、失墜した幕府の権威を回復するため、朝廷との融和を図る公武合体政策を推進した。
その具体的な交渉として進められたのが、孝美(こうめい)天皇の妹である皇女・和宮(親子内親王)と、14代将軍・徳川家茂の政略結婚(降嫁)であった。安藤らは「降嫁が実現すれば、幕府は10年以内に攘夷を実行する」という約束を朝廷と交わし、力ずくで和宮の降嫁を実現させた。
しかし、この強引な融和策は、急進的な尊王攘夷派の志士たちの激しい怒りを買った。彼らは、和宮降嫁を「幕府が朝廷を懐柔し、開国を既成事実化するための陰謀」と見なし、安藤信正を「朝廷を脅かす奸臣」として暗殺の標的としたのである。
襲撃の決行と安藤信正の失脚
安藤暗殺を計画したのは、宇都宮藩の儒学者・大橋訥庵(おおはしとつあん)を中心とするグループであった。大橋自身は計画途中に幕府に察知されて逮捕されたが、意志を継いだ水戸藩の浪士ら6名(平山兵介、黒沢敬時など)が実行に移した。
1862(文久2)年1月15日、将軍・家茂への新年の挨拶のために登城する安藤信正の行列が、江戸城の坂下門外に差し掛かったところを、6人の浪士が突如襲撃した。激しい乱闘の結果、安藤は背中に軽傷を負ったものの、一命を取り留めて城内へと逃げ延びた。襲撃した浪士は全員その場で闘死、または自刃した。
安藤は事件直後に傷口を治療して登城し、健在ぶりをアピールして外国使節と面会するなど強行姿勢を示した。しかし、「背中に傷を負った(敵に背を向けた)」ことが武士として卑怯であると世間から激しく嘲笑され、政治的信用を完全に失った。さらに、将軍の警護責任者である老中が城門前で再び襲撃された事実は、幕府の治安維持能力の限界を露呈させた。結果、安藤は同年4月に老中を罷免され、失脚することとなった。
歴史的意義:幕府主導路線の終焉と雄藩の台頭
坂下門外の変は、桜田門外の変に続いて「テロリズムによって幕政の最高権力者を排除できる」という前例を重ねる形となり、尊王攘夷派の動きをさらに過激化させた。
また、この事件によって幕府が独力で進める公武合体路線は完全に頓挫した。これ以降、政治の主導権は衰退する幕府の手から離れ、朝廷を直接擁して幕政改革を迫る島津久光(薩摩藩国父)や、尊王攘夷運動の拠点となった長州藩などの有力雄藩へと移り変わっていくことになり、幕末の政局は「雄藩連合による公武合体」や「尊王攘夷」へと大きく展開していく。