中山忠光 (なかやまただみつ)
【概説】
幕末期の急進的な尊王攘夷派公家。明治天皇の叔父にあたり、幕末最初期の武装蜂起である「天誅組の変」において主将に擁立された人物。
公家社会からの脱走と天誅組の挙兵
中山忠光は権大納言・中山忠能の七男として生まれた。実姉の中山慶子が孝明天皇の典侍となって明治天皇を生んだため、皇室とも極めて近い血縁関係にある名門公家であった。しかし幕末の動乱期、忠光は朝廷内の穏健な公武合体派の姿勢に不満を抱き、吉村虎太郎をはじめとする土佐藩や長州藩の過激な尊王攘夷派志士たちと深く交わるようになる。
文久3年(1863年)3月、忠光は朝廷を無断で脱出して長州へと下向し、下関海戦において外国船への砲撃に加わるなど、公家という身分を逸脱した行動をとった。同年8月、孝明天皇の大和行幸(神武天皇陵への参拝と攘夷親征の祈願)が決定されると、これに呼応して先鋒となるべく、吉村らとともに大和国(現・奈良県)での挙兵を計画。忠光は格式の高い「公家」の看板として天誅組の主将に擁立され、大和五條の代官所を襲撃した。
「八月十八日の政変」による孤立と壊滅
天誅組の挙兵は、討幕・攘夷を掲げた先駆的な軍事行動であったが、その直後に京都の政局が劇変する。薩摩藩・会津藩が結託して過激な長州藩や尊王攘夷派公家を京都から追放した八月十八日の政変が勃発し、大和行幸そのものが中止となったのである。これにより、天誅組は挙兵の大義名分を失い、単なる「暴徒(朝敵)」として孤立無援の境遇に立たされた。
忠光らは十津川郷の浪士らを募って吉野の峻険な地形で抗戦を試みたが、諸藩から派遣された圧倒的な幕府追討軍を前に壊滅。主要な幹部たちが次々と討ち死に、あるいは捕縛される中、主将の忠光は側近に守られて奇跡的に戦場を脱出し、大坂経由で長州へと逃亡した。
長州藩での潜伏と悲劇的な最期
長州藩へと亡命した忠光は、支藩である長府藩の保護のもと、各地を転々としながら潜伏生活を送った。しかし、本家の長州藩もまた「禁門の変」や四国艦隊砲撃事件での敗北を経て、藩政の実権が一時的に保守派(俗論党)の手へと渡ることになる。幕府からの厳しい追及を恐れ、さらなる紛争の種となる過激派公家の存在を疎んだ俗論党政権にとって、忠光は厄介な存在でしかなかった。
元治元年(1864年)11月、忠光は滞在先であった長府藩領の田倉(現・山口県下関市)において、藩の刺客によって暗殺された。享年20(満19歳)。その死は当初病死と発表されたが、明治維新後に名誉が回復され、現在は下関市の中山神社に祀られている。彼の短い生涯は、時勢の激変に翻弄された過激な貴族知識人の悲劇的な結末を象徴している。