吉村寅太郎 (よしむらとらたろう)
【概説】
幕末に活躍した土佐藩出身の尊王攘夷派志士。大和国(現・奈良県)において公卿の中山忠光を擁立して「天誅組」を組織し、幕府の五條代官所を襲撃して挙兵した人物である。この「天誅組の変」は幕末期における最初の武力討幕運動の先駆として、その後の歴史に大きな影響を与えた。
土佐勤王党への参加と脱藩
吉村寅太郎は天保8(1837)年、土佐国高岡郡(現在の高知県檮原町)の庄屋の家に生まれた。早くから文武に励み、大庄屋格にまで昇進したが、世情の動揺の中で国事に奔走するようになる。文久元(1861)年に武市半平太が結成した土佐勤王党にいち早く加盟し、尊王攘夷運動に傾倒していった。
しかし、藩論を尊王攘夷に統一しようとする武市の手法に限界を感じた吉村は、文久2(1862)年に同郷の沢村惣之丞らとともに藩法を破って脱藩した。これは坂本龍馬の脱藩に先駆ける行動であった。京都に上った吉村は、薩摩藩の国父・島津久光の率兵上京に期待を寄せ、他藩の過激浪士らとともに挙兵を画策したが、薩摩藩内の志士が粛清された寺田屋事件に連座して捕縛され、一度は土佐へ送還・投獄された。
大和挙兵と天誅組の結成
文久3(1863)年に釈放されて再び脱藩した吉村は、京都において長州藩や過激派公卿らと密に連絡を取り合った。当時、朝廷では孝明天皇の大和行幸と、それに伴う親征(攘夷決行の軍議)の計画が進められていた。吉村はこの行幸の先鋒となることを企図し、前治部大輔の公卿・中山忠光を主将に仰ぎ、三河国出身の松本奎堂や藤本鉄石らとともに「天誅組」を結成した。
天誅組は同年8月17日、幕府の支配地であった大和国五條の代官所を襲撃して代官・鈴木源内を殺害し、ここを「御政府」と称して臨時の民政を開始した。これが幕末における討幕派による最初の組織的な武力蜂起(天誅組の変)である。吉村はこの中で軍事的な主導権を握り、挙兵の実質的なリーダーとして活動した。
「八月十八日の政変」と天誅組の瓦解
しかし、挙兵の直後である8月18日、京都で薩摩藩・会津藩らの画策による公武合体派のクーデター(八月十八日の政変)が勃発した。これにより、天誅組の後ろ盾であった長州藩勢力や三条実美ら急進派公卿が追放され、大和行幸も中止となった。一転して「朝敵(暴徒)」とみなされた天誅組は孤立無援となり、近隣の十津川郷士らを募兵して抵抗を試みたものの、幕府軍や紀州・津藩などの追討軍による包囲網に追い詰められていった。
吉村らは大和の山岳地帯を敗走したが、満身創痍となり、同年9月27日、大和国吉野郡鷲家口(現在の奈良県東吉野村)において追討軍の狙撃を受けて致命傷を負い、自刃した。享年27。天誅組の蜂起自体は短期間で鎮圧されたものの、幕府の権威が著しく低下していることを全国に示し、のちの生野の変や天狗党の乱など、各地の志士による武力抗争を誘発する引き金となった。