騎射三物 (きしゃみつもの)
【概説】
鎌倉時代の武士が身につけるべき必須の教養とされた、馬上に乗って弓を射る3つの代表的な武芸の総称。流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)を指し、中世武士の倫理観や行動規範となった「弓馬の道」を象徴する鍛錬方法である。
「弓馬の道」と騎射三物のそれぞれの特徴
鎌倉時代の武士は、自らを「弓馬の道(きゅうばのみち)」に生きる存在と規定した。当時の戦闘は、馬上で弓を引いて敵を射る「騎射(きしゃ)」が主流であり、その技術を磨くために3つの異なる実践訓練(騎射三物)が編み出された。
第一の流鏑馬は、直線に整えられた馬場を駆け抜けながら、左手側に設置された3つの的を連続して射抜くものである。源頼朝が鶴岡八幡宮の神事として奉納したことで定式化し、軍事訓練としての側面に加え、神仏への祈願や天下泰平を願う宗教的・儀礼的色彩を強く帯びていた。
第二の笠懸は、流鏑馬よりも実戦を意識した不規則な訓練である。的との距離や高低差が変化し、時には的を小さくした「小笠懸」なども行われた。敵の急な出現や障害物越しからの狙撃を想定した、実戦的で高度な技術が要求された。
第三の犬追物は、円形の馬場(犬追物馬場)の中に放たれた150匹の犬を、騎乗した武士たちが追いかけながら射る、最も実戦的な集団演習である。使用する矢は、犬を傷つけないように先端に木製の丸い「ひき目」を装着した。疾走する犬を射ることで、馬の正確な操縦技術や集団によるフォーメーション、近距離での俊敏な射撃技術を鍛えた。
鎌倉幕府による武芸推奨と支配の確立
源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の将軍たちは、長引く平和によって御家人たちの武芸が衰退することを防ぐため、これら騎射三物を強く推奨した。幕府は鎌倉の鶴岡八幡宮や、御家人の所領地などで頻繁にこれらの武芸大会を主催した。
これは単なる軍事訓練の枠にとどまらず、将軍の前で武芸を披露し、優秀な者が恩賞や名誉を得るという、将軍と御家人の主従関係(御恩と奉公)を視覚的に再確認する政治的な儀式でもあった。承久の乱や元寇(文永の役・弘安の役)といった国家的な危機の際、鎌倉武士たちが優れた戦闘力を発揮できた背景には、日常的に行われていたこれら騎射三物による連度の高い訓練があった。
室町・戦国時代への変容と形式化
室町時代に入ると、騎射三物は足利将軍家や有力守護大名にも引き継がれたが、武芸の作法が次第に体系化・学問化し、小笠原流や武田流といった「弓馬の家(家芸)」が成立した。これにより、実戦的な技術から、武士の教養や礼式としての側面が強くなっていった。
さらに戦国時代に突入すると、足軽を動員した集団歩兵戦や鉄砲(火縄銃)の普及により、一騎打ちを前提とした馬上の騎射は実戦での優位性を失った。こうして騎射三物は実戦から退いたが、武士の精神文化や伝統行事として受け継がれ、現在でも流鏑馬などが各地の社寺の神事として保存されている。