天诛組の変

1863年、天皇の大和行幸の先駆けとして吉村寅太郎らが挙兵したが、八月十八日の政変により逆賊として討伐された事件は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
肖戦(Wikipedia)

天誅組の変 (てんちゅうぐみのへん)

1863年

【概説】
幕末の1863年(文久3年)8月、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎らが公卿の中山忠光を擁立して大和国(奈良県)で起こした武装蜂起。明治維新期における諸国志士による倒幕・攘夷運動の先駆となったが、直後に京都で発生した「八月十八日の政変」によって梯子を外される形となり、孤立無援のまま追討軍に敗れて壊滅した。

「大和行幸」の画策と挙兵の背景

1863年(文久3年)前半の京都は、長州藩を後ろ盾とする尊王攘夷派の公卿や志士たちが主導権を握っていた。彼らは、孝明天皇がみずから神武天皇陵や春日大社に参拝して攘夷の親征を行うという大和行幸(および攘夷親征の詔勅)を計画。これを機に一挙に幕府を追いつめ、攘夷の実行と朝廷主導の政治体制への移行を狙っていた。

こうした状況下で、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎や三河刈谷脱藩の松本奎堂、備前脱藩の藤本鉄石らは、大和行幸の先鋒(先駆)を務めるべく、前権中納言の中山忠光を主将に迎えて「天誅組」を結成した。彼らの目的は、天皇の大和入りに先んじて大和国内の幕府勢力を一掃し、受け入れ態勢を整えることにあった。

五條代官所の襲撃と「大和義挙」

文久3年8月17日、天誅組の軍勢は大和国五條(現・奈良県五條市)に侵入し、幕府の支配拠点であった五條代官所を襲撃した。彼らは代官の鈴木源内らを殺害して代官所を焼き払い、五條を「天朝直轄地」と宣言して仮本陣を設けた。これが幕府支配に対する最初の組織的な武力反抗であり、当時は「大和義挙」とも呼ばれた。

天誅組はさらに、地元の十津川郷士(古代から朝廷への忠誠心が強いとされた山間部の民)に檄を飛ばして約1000人を募兵し、軍事力を一時的に拡大させた。ここまでは彼らの計画通りに進むかに見えた。

「八月十八日の政変」による孤立と壊滅

五條襲撃の翌日である8月18日、京都の政局が激変する。公武合体派の薩摩藩と会津藩が結託し、長州藩や三条実美ら尊攘派公卿を京都から追放する八月十八日の政変を断行したのである。これにより大和行幸の計画は完全に中止となった。

大和行幸の「先駆者」を自認していた天誅組は、一転して「天皇の意思に反して暴動を起こした反逆者」の烙印を押されることとなった。幕府は周辺の諸藩(紀州藩、津藩、彦根藩など)に天誅組の追討を命令。事態の急変を察知した十津川郷士たちも天誅組から離反し、彼らは吉野の険しい山岳地帯へと敗走を余儀なくされた。

天誅組は、主将の中山忠光を逃すために決死の防戦を試みたが、9月下旬、東吉野村の鷲家口(わしかぐち)付近で追討軍に捕捉され、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら主要幹部は相次いで戦死または自刃し、天誅組は完全に壊滅した。

天誅組の変が残した歴史的意義

天誅組の挙兵は、純粋な尊王攘夷の情熱から出た無謀な暴発という側面が強い。しかし、この事件はそれまでの言論やテロ(暗殺)活動にとどまっていた志士たちの運動が、明確に「幕府打倒のための武装蜂起」へと踏み出した画期的な出来事であった。

この事件に呼応する形で、同年に但馬国で起きた「生野の変」や、翌年の水戸藩過激派による「天狗党の乱」など、各地で草莽(在野の志士や農民)による武装蜂起が頻発することになる。天誅組の変は、短期的には失敗に終わったものの、幕末の動乱を最終的な武力倒幕の局面へと押し進める歴史的な導火線としての役割を果たしたといえる。

天誅組の変-幕末志士の挙兵から生野の変まで (中公新書 2739)

幕末の情勢に翻弄されながらも大義に殉じた天誅組の熱き志と、その挙兵が辿った過酷な運命を克明に描いた歴史探究の書。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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