清河八郎 (きよかわはちろう)
【概説】
出羽国庄内藩出身の幕末の志士。江戸幕府に働きかけて将軍警護のための「浪士組」を結成させながら、これを尊王攘夷の先鋒へと転換させようと画策した策士。その破天荒な行動は、のちの「新選組」や「新徴組」が誕生する直接の契機となった。
「虎尾の会」結成と浪士組の献策
清河八郎は天保元年(1830年)、出羽国庄内(現在の山形県庄内町)の裕福な郷士の家に生まれた。若くして江戸に上り、東条一堂や安積艮斎のもとで儒学を、千葉周作の玄武館で北辰一刀流を学び、文武両道の才を発揮した。江戸に私塾を開くなど学問的地位を築きつつあった清河だが、黒船来航以降の政情不安の中で急進的な尊王攘夷思想へと傾倒していく。
文久元年(1861年)、清河は薩摩藩の益満休之助や、のちに新選組結成に深く関わる殿内義雄らと共に、倒幕を目的とする秘密結社「虎尾の会(こびのかい)」を結成した。しかし、幕府から危険人物として追われる身となり、一時は各地を潜伏・逃亡する生活を余儀なくされる。この逃亡生活の中で清河は、単なる過激な破壊工作ではなく、幕府の権力や資金を合法的に利用して自己の思想を実現するという、大胆な策略を構想するにいたった。
浪士組の結成と京都での大転換
文久2年(1862年)末、清河は幕府の松平春嶽(政事総裁職)に対し、治安が悪化する京都へ上洛する将軍・徳川家茂の警護と、攘夷の実行を目的とした「浪士組」の結成を建言した。深刻な人材不足にあえいでいた幕府はこの提案を採用し、身分を問わずに広く隊士を募集した。これに応じたのが、試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司や、芹沢鴨といったのちの「新選組」の面々、そして尊王攘夷の志を持つ多くの浪人たちであった。
文久3年(1863年)2月、清河に率いられた200名以上の浪士組は京都に到着した。しかし到着直後、清河は壬生の新徳寺において、本来の目的は将軍警護ではなく「朝廷に帰順し、天皇のもとで尊王攘夷の先鋒となることである」と宣言し、隊士たちに尊王の誓約書に署名させた。これは幕府の金で集めた軍事力を一瞬にして尊王攘夷派の私兵へと塗り替える、極めて大胆なクーデターであった。
分裂、そして暗殺へ
この清河の独断専行に対し、あくまで将軍警護という本来の任務に忠実たらんとする近藤勇や芹沢鴨らは激しく反発し、浪士組を離脱して京都に残った。これがのちに京都の治安維持を担う「新選組(壬生浪士組)」へと発展していく。一方、清河は自らに従う大半の浪士を率いて江戸へと戻り、朝廷直属の攘夷軍を組織しようとした。
清河の裏切りに気づいた幕府は、彼の存在を危険視し暗殺を決定した。文久3年4月13日、清河は江戸の麻布一ノ橋において、幕府の刺客(佐々木只三郎ら)に急襲され、34歳の若さで命を落とした。清河なきあとの浪士組は幕府に回収され、庄内藩預かりの「新徴組」として江戸の市中取締に当てられることとなった。清河八郎自身は非業の死を遂げたが、彼の機略がなければ、新選組をはじめとする幕末の主要な武力集団が誕生することはなかったと言える。