浪士組

清河八郎の提案で将軍の上洛を警護する名目で集められたが、発案者の意図に反発して京都に残った者が新選組の母体となった組織は何か?
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重要度
★★

浪士組 (ろうしぐみ)

1863年

【概説】
江戸幕府14代将軍・徳川家茂の上洛警護を名目に、文久3年(1863年)に結成された武装組織。浪士(浪人)達を身分を問わず広く登用して組織されたが、結成を主導した清河八郎の意図により尊王攘夷運動の先鋒へと変貌を遂げた。のちの新選組や新徴組の母体となったことで、幕末史において極めて重要な結節点となった集団である。

結成の背景と将軍上洛

幕末の文久3年(1863年)、幕府は公武合体政策を進める中、将軍・徳川家茂の230年ぶりとなる上洛を決定した。当時、京都は全国から集まった尊王攘夷派の志士(浪士)たちで騒然としており、将軍の治安・警護を確保することが急務となっていた。この状況に対し、出羽国出身の策士・清河八郎が、松平春嶽(政事総裁職)ら幕閣に「浪士を徴募して将軍警護の軍力とすべき」との建言を行う。幕府はこれを受け入れ、身分を問わない浪士の募集を開始。同年の2月、200名を超える浪士組が結成され、京都に向けて江戸を出発した。

清河八郎の策略と「攘夷」への転向

しかし、清河八郎の真の狙いは幕府の警護ではなく、集まった浪士たちを糾合して尊王攘夷の先兵とすることにあった。浪士組が京都の壬生(みぶ)に到着した直後、清河は新徳寺に隊士を集め、「我々の本意は将軍警護ではなく、天皇に忠義を尽くし、攘夷を断行することにある」と宣言。この急進的な主張により、幕府の資金で組織されたはずの浪士組は、一瞬にして朝廷(天皇)に帰属する政治・軍事集団へと変貌を遂げることとなった。幕府はこの急変に驚愕し、浪士組を江戸へ呼び戻すよう急遽命令を下した。

組織の分裂と「新選組」の誕生

清河の独断専行と方針転換に真っ向から反対したのが、水戸浪士の芹沢鴨や、試衛館(天然理心流)の館主・近藤勇土方歳三らの一部隊士であった。「将軍を警護する」という当初の目的に固執した彼らは、清河に従って江戸へ戻ることを拒否し、京都への残留を志願。この残留組がのちに京都守護職の会津藩主・松平容保の傘下に入り、京都の治安維持を担う新選組へと発展することになる。一方、江戸に帰還した清河らは幕府の警戒を買い、間もなく清河自身は暗殺されたが、残された隊士たちは庄内藩の支配下に移り、江戸の治安維持を担う新徴組(しんちょうぐみ)として再編された。このように浪士組は、幕末の京都・江戸双方の治安を左右する二大武装組織の母体となった歴史的重要な集団である。

新選組全史 下

幕末の動乱を駆け抜けた志士たちの最期と、組織が辿った終焉を重厚な筆致で克明に描き出す歴史絵巻の完結編。

新選組を探る

知られざる隊士の素顔や史実の裏側に光を当て、多角的な視点から組織の正体と新選組の本質を解き明かす一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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