平野国臣 (ひらのくにおみ)
【概説】
幕末期に活躍した福岡藩出身の尊王攘夷派志士。独自のネットワークを築いて過激な尊攘運動を展開し、大和の天誅組の変に呼応して但馬国で生野の変を起こしたが、失敗して捕縛され、禁門の変の混乱の中で刑死した人物である。
福岡藩脱藩と草莽の志士としての躍動
平野国臣は文政11(1828)年、福岡藩の足軽大組の家に生まれた。藩校の修猷館で学び、国学に傾倒したことで強い尊王攘夷思想を抱くようになる。安政5(1858)年には、日米通商修好条約の無勅許調印や将軍継嗣問題をめぐる幕府の専横に憤り、藩を脱藩して京都や薩摩へと向かった。
特に薩摩藩の尊攘派志士や、薩摩に逃れていた僧・月照、西郷隆盛らと深く交流し、一時は月照の入水自殺に立ち会うなど、激動の政局のただ中に身を置いた。万延元(1860)年には、大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変に呼応して挙兵を画策するなど、特定の藩の枠に縛られない「草莽(そうもう)の志士」の先駆者として精力的に活動した。
薩摩藩への期待と挫折
文久2(1862)年、薩摩藩の国父・島津久光が率兵上洛する計画を立てると、平野をはじめとする尊攘派志士たちは、これを幕府打倒・攘夷断行の好機と捉えて大いに期待した。平野は薩摩藩の過激派である有馬新七らと結び、京都での挙兵を準備した。
しかし、久光の真意は公武合体による幕政改革であり、過激な暴発を望んでいなかった。これを察知した久光によって薩摩尊攘派が粛清された寺田屋騒動の直前、平野は捕縛され、福岡藩へと送還されて投獄された。この挫折により、平野は藩閥に依存する運動の限界を悟り、さらなる過激な直接行動へと傾斜していくこととなる。
生野の変と非業の最期
文久3(1863)年、釈放された平野は京都へ戻るが、同年「八月十八日の政変」によって長州藩や尊攘派公卿が追放されると、尊攘運動は重大な危機に直面した。平野はこれに対抗するため、大和国で挙兵した天誅組に呼応し、長州へ逃れていた公卿・沢宣嘉を擁立して、但馬国の幕府天領であった生野代官所を襲撃した(生野の変)。
平野らは地元の農民たちを巻き込んで「農兵」を組織しようとしたが、急進的な討幕の呼びかけは農民たちの理解を得られず、むしろ警戒されて離反を招いた。さらに幕府軍の迅速な追討が始まると、首領の沢が逃亡するなどして軍はたちまち崩壊し、平野は捕縛されて京都の六角獄舎に送られた。翌元治元(1864)年、禁門の変(蛤御門の変)の際、火災が獄舎に迫った混乱の中、未決囚のまま斬首された。彼の死は、拙速な武装蜂起の限界を示すと同時に、のちの奇兵隊などに見られる民衆を巻き込んだ軍事組織形成への過渡期的な試みとして、歴史的に重要な意義を持っている。