新選(撰)組

浪士組のうち京都に残留した近藤勇らが結成し、京都守護職の配下として池田屋事件などで尊王攘夷派を弾圧した組織は何か?
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重要度
★★★★

新選(撰)組 (しんせんぐみ)

1863年〜1869年

【概説】
幕末期に京都守護職・松平容保の配下として、京都の治安維持や尊王攘夷派の取り締まりにあたった浪士の武装組織。近藤勇や土方歳三らを中心に厳格な規律のもとで活動し、池田屋事件などで名を馳せたが、戊辰戦争を最後まで戦い抜き消滅した。

結成の背景と「壬生浪士組」の誕生

幕末の文久3年(1863年)、14代将軍徳川家茂の上洛に際し、将軍警護のために庄内藩郷士の清河八郎の献策により「浪士組」が結成された。しかし、京都に到着後、清河が浪士組を尊王攘夷の先鋒とする本来の意図を明かし、一同に江戸への帰還を命じた。これに反発した近藤勇土方歳三ら天然理心流・試衛館派の多摩の剣客たちと、芹沢鴨ら水戸藩出身者の一部は京都に残留した。彼らは京都郊外の壬生村を拠点としたため、「壬生浪士組」と呼ばれた。これが新選組の母体である。

京都守護職配下での活動と池田屋事件

当時、京都は尊王攘夷派の過激な志士たちが集まり、暗殺や強盗が横行して治安が極度に悪化していた。壬生浪士組は、京都の治安維持を新たに担うことになった京都守護職の会津藩主・松平容保の預かりとなり、「新選組(新撰組とも表記される)」の名を賜った。彼らの名を一躍全国に轟かせたのが、元治元年(1864年)の池田屋事件である。長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士が謀議を行っていた旅館・池田屋を急襲し、多数を討ち取り・捕縛した。この事件により尊攘派は大きな打撃を受け、憤激した長州藩が挙兵する禁門の変(蛤御門の変)の引き金となるなど、幕末の政局に多大な影響を与えた。

厳格な組織統制と内部粛清

新選組の最大の特徴は、「局中法度(きょくちゅうはっと)」と呼ばれる極めて厳格な規律と、身分を問わない能力主義に基づく組織運営にあった。局長を近藤勇、副長を土方歳三が務め、隊を複数の組に分けて組長を置く軍隊的な編制をとった。士道に背く行為や局を脱することは切腹と定められており、結成初期の筆頭局長であった芹沢鴨をはじめ、総長の山南敬助や、後に御陵衛士として分派した伊東甲子太郎など、内部の権力闘争や規律違反を理由とした凄惨な内部粛清が幾度も行われた。これにより、新選組は単なる浪士の烏合の衆から、幕府側における最強の剣客集団へと変貌を遂げていった。

戊辰戦争への参戦と組織の終焉

慶応3年(1867年)の大政奉還を経て、翌慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、新選組の運命は大きく暗転する。初戦である鳥羽・伏見の戦いで新政府軍の近代兵器の前に敗北を喫した彼らは、江戸へ撤退した後、「甲陽鎮撫隊」と名を改めて甲州勝沼の戦いに臨むも再び敗走した。その後、局長の近藤勇は新政府軍に投降して下総国流山で捕縛され、板橋刑場で斬首された。残された土方歳三らは宇都宮、会津と北上しながら転戦を続け、最終的に榎本武揚らとともに蝦夷地(北海道)へ渡った。明治2年(1869年)の箱館戦争(五稜郭の戦い)において土方が戦死すると、残存兵も新政府軍に降伏し、新選組は完全に消滅した。

歴史的意義

新選組は、崩壊に向かう幕府権力を下支えする末端の暴力装置としての役割を担っていた。しかし同時に、身分制が激しく揺らぐ幕末期において、農民や町人出身の者たちが「武士以上に武士らしくあること」を追求し、剣術という己の実力のみで歴史の表舞台に駆け上がった稀有な集団でもあった。彼らの徹底した幕府への忠誠心と悲劇的な末路は、近代化の荒波に抗い散っていった「最後の武士」の象徴として、後世の文学や映像作品において今日まで語り継がれている。

新選組血風録 新装版 (角川文庫)

隊士たちの生き様と死に様を冷徹な視点と鮮烈な筆致で描き出した、時代小説の金字塔となる一冊。

新選組の真実

虚構に覆われた伝説を史料から解き明かし、組織としての実像と葛藤を浮かび上がらせた歴史探究の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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