第1次長州征討(伐) (だいいちじちょうしゅうせいとう(ばつ)
【概説】
禁門の変により朝敵となった長州藩に対し、1864年(元治元年)に江戸幕府が諸藩を動員して行った軍事制裁。幕府軍の圧倒的な兵力と西郷隆盛の交渉により、長州藩は戦火を交えることなく恭順の意を示し、幕府側の勝利で終結した。
長州征討の背景と朝敵指定
1864年(元治元年)7月に発生した禁門の変(蛤御門の変)において、長州藩兵は京都御所に向けて発砲するという前代未聞の事態を引き起こした。これにより長州藩は朝廷から正式に朝敵(天皇の敵)とみなされることとなった。朝廷は直ちに江戸幕府に対して長州追討の勅命を下し、幕府はこれを大義名分として全国の諸藩に動員をかけ、長州藩への大規模な軍事制裁へと乗り出したのである。
幕府軍の編制と西郷隆盛の外交戦
幕府は尾張藩主の徳川慶勝を総督、越前藩主の松平茂昭を副総督とし、全国から約15万にも及ぶ大軍を編制して長州国境へと進軍した。この幕府軍において実質的な作戦指揮を執ったのが、参謀として加わった薩摩藩の西郷隆盛である。西郷は大坂での進軍の途上、幕臣の勝海舟と会談し、国内で大規模な内戦を起こせば欧米列強に付け入る隙を与え、日本の植民地化を招きかねないと諭された。これを受けた西郷は強硬な武力討伐から方針を転換し、軍事的な圧力を背景にしつつも、交渉による平和的な降伏勧告を画策することとなる。
長州藩の内部対立と無血降伏
一方の長州藩は、禁門の変での惨敗に加えて、同年8月には英仏蘭米の四国連合艦隊による四国艦隊下関砲撃事件が発生し、まさに内憂外患の極みにあった。この絶望的な状況下で、藩内ではこれまで実権を握っていた尊王攘夷派(正義派)が失脚し、幕府への恭順を主張する保守派(俗論派)が台頭して藩政を掌握した。西郷隆盛が提示した降伏条件に対し、俗論派が主導する長州藩はこれを受諾。禁門の変の責任者である三家老(国司親相、益田親施、福原元僢)を切腹させ、首謀者とされた四参謀を処刑し、さらに山口城を一部破却して藩主の毛利敬親が謹慎することで恭順の意を示した。結果として幕府軍は一発の銃弾も交えることなく兵を収めることとなった。
歴史的意義と第2次征討への布石
第1次長州征討は、表面上は幕府の完全な勝利に終わり、失墜しつつあった幕府の権威は一時的に回復したかのように見えた。しかし、この結末は長州藩内の急進派に強い危機感を抱かせることになった。同年12月、高杉晋作が奇兵隊などを率いて功山寺で挙兵し、藩内の俗論派を打倒して再び倒幕派が藩政を掌握するのである。さらに、幕府軍の主力であった薩摩藩は、長州藩の処遇を巡る幕府のその後の強硬姿勢(長州再征の企図)に疑念を抱き、次第に幕府と距離を置くようになっていく。このように本事件は、幕府権威の回復が一時的な幻影に過ぎなかったことを露呈させ、やがて薩長同盟の結成と、幕府の致命傷となる第2次長州征討(四境戦争)へと直結する、幕末政治史の重要な転換点となったのである。