徳川慶勝 (とくがわよしかつ)
【概説】
幕末から明治時代初期にかけて活躍した尾張徳川家第14代・17代藩主。第1次長州征討において征長総督に任命され、実戦を交えることなく長州藩を恭順させた人物。一橋慶喜(徳川慶喜)らと協調して幕政改革を目指したが、のちの戊辰戦争では新政府側に立ち、尾張藩を挙げて官軍を支援した。
高須四兄弟と尾張藩主への就任
徳川慶勝は、美濃高須藩主・松平義建の次男として生まれた。彼の実弟には、会津藩主として京都守護職を務めた松平容保、桑名藩主の松平定敬、一橋徳川家を継いだ徳川茂徳がおり、彼らは幕末の政局でそれぞれ異なる立場から重要な役割を果たしたことから「高須四兄弟」と称される。
慶勝は弘化4年(1847年)に尾張藩の分家である成瀬家を継ぎ、さらに嘉永2年(1849年)に本家である尾張徳川家を相続して第14代藩主となった。藩主就任後は、藩政改革を進めるとともに、対外危機に対しては尊王攘夷の立場をとった。将軍継嗣問題においては、14代将軍に一橋慶喜を推す一橋派に属したため、南紀派の井伊直弼が主導した安政の大獄(1858年)によって隠居・謹慎処分に追い込まれることとなった。
第1次長州征討と「無血恭順」の達成
文久2年(1862年)に謹慎を解除されて復権した慶勝は、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)によって長州藩が朝敵となると、幕府から征長総督に任命された。慶勝は実質的な軍事指揮を執る参謀として薩摩藩の西郷隆盛を登用した。
西郷は、長州藩内部の保守派(俗論派)を動かして、禁門の変の責任者である家老らの切腹や三条実美ら五卿の追放を受け入れさせることで、武力衝突を回避する策を慶勝に提案した。慶勝はこの方針を採用し、長州藩を戦わずして恭順させることに成功した(第1次長州征討)。しかし、幕府主導による徹底的な処分を望む強硬派からは慶勝の寛大な処置は生ぬるいと批判され、慶勝自身も翌年の第2次長州征討の決定に対しては、その無益さを説いて出兵を拒絶した。
戊辰戦争における「青松葉事件」と明治維新
慶応3年(1867年)の大政奉還および王政復古の大号令を経て、新政府が樹立されると、慶勝は議定に任じられた。翌年の慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、尾張藩は徳川御三家の筆頭でありながら、いち早く新政府(官軍)への恭順を決断した。
この際、藩内における旧幕府(佐幕)派の台頭を防ぎ、新政府への忠誠を示すため、慶勝は家臣ら複数人を処刑・処罰する粛清を断行した。これを青松葉事件と呼ぶ。この果断な(あるいは苛烈な)措置により、尾張藩は一丸となって東征軍(官軍)の先鋒を務め、東海道の諸藩を動揺させることなく明治新政府の基礎固めに大きく貢献した。明治維新後は名古屋藩知事を経て隠居し、趣味である写真撮影に没頭するなどして静かな晩年を過ごした。